宮崎カズエ・上
宮崎カズエ・上(81)
宮崎カズエさん(81)
爆心地から1・1キロの大橋町で被爆
=雲仙市南串山町=

私の被爆ノート

名前を呼ぶ同僚の声

2012年4月12日 掲載
宮崎カズエ・上
宮崎カズエ・上(81) 宮崎カズエさん(81)
爆心地から1・1キロの大橋町で被爆
=雲仙市南串山町=

1945年3月、14歳で古里島原半島の南串山を離れ、長崎市大橋町の三菱長崎兵器製作所大橋工場に従事した。魚雷の部品をやすりで丸く仕上げる作業だった。

当初、都会の長崎暮らしには期待感もあった。しかし住吉町の工場の寮は、10畳に8人が就寝。食事は牛の飼料に近かった。寮と工場を往復するだけの毎日。朝礼では「おまえたちが手を抜くと戦争に負ける」と連日の訓示。精神的にも追い詰められて、とても過酷な環境だった。

8月9日も朝から工場で働いていた。空襲警報が出たため、防空壕(ごう)に避難。警報が解除されたので作業を再開しようとした時、原爆がさく裂したようだった。その瞬間の記憶はない。

何時間くらいたったか。意識が戻ると、がれきの下敷きになっていて、身動きが取れない。「お母さん助けて」。泣き叫ぶ同僚の声。私も背中にガラスの破片が突き刺さったまま、涙が枯れるほど泣いた。

周りに火の手が迫ってきた。諦めかけたとき、助け出された。「稲佐山に逃げろ」と言われ、駆けだしてすぐ、知らない人に呼び止められた。けが人が私を呼んでいるという。近づくと寮で同部屋だった女の子が2人横たわっていた。1人は瀕死(ひんし)の状態。もう1人は全身にやけどを負い、肌が黒光りしていた。「水をちょうだい」。そう言った。しかし周りに水はなく、ただ手を握ってあげることしかできなかった。

「早く逃げろ。ここも危ない」。近くの人にそう言われ、後ろ髪を引かれる思いで手を離した。彼女の手の皮は溶けるようにはがれ、私の手についた。

稲佐山へ逃げる人は多かった。やっと頂上付近にたどり着き、不安な思いで一夜を明かした。いつか憧れた長崎の街は、至る所から火の手が上がり、昼のように明るかった。

朝、親切な男性が乾パンをくれた。道ノ尾駅への道順も教えてもらい、歩きだした。たくさんの人が折り重なるように亡くなっている街中。大橋から住吉までの通い慣れた道も一変していた。爆風や火事で、何もかもない。遺体、そして瀕死の状態で水を求める人が転がっている。原形を失った街で、人の姿だけが目立っているような印象だった。地獄を感じた。

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