石井 民治
石井 民治(85)
石井民治さん(85)
入市被爆
=平戸市田平町一関免=

私の被爆ノート

焼け野原でレール修復

2012年3月29日 掲載
石井 民治
石井 民治(85) 石井民治さん(85)
入市被爆
=平戸市田平町一関免=

1カ月ほど前まで暮らしていた浦上が一面の焼け野原に変わっていた。国鉄の青年寮、にぎわっていた商店街-。全てが跡形もなくなっていた。

1945年、国鉄の線路工手となって2年目の17歳。配属は田平村(現平戸市田平町)の平戸口駅だったが、レール敷設を学ぶため7月ごろまでの約半年間、浦上にあった青年寮で暮らした。そして、田平村に戻った。

8月9日は、平戸口駅近くで作業していた。夕方、工手長から「新型爆弾が長崎に落ちた。不通になっている道ノ尾-浦上駅間の復旧に向かうように」と通達を受けた。

翌日、朝一番の列車でたち、諫早駅で長崎方面から走ってきた列車とすれ違った。その車内には男女の見分けもつかないほどやけどした人たち。「爆弾でけがしたとやろうか」。同僚とささやき合った。その日は道ノ尾駅に泊まり、11日早朝に徒歩で出発。たどり着いた浦上駅は全壊し、線路上に幼子がうつぶせで亡くなっているのが見えた。最初は遺体を見るたびに恐ろしさを感じたが、やがて感覚がまひした。焼け野原の中でレールだけは割と真っすぐ延びているのが不思議だった。

浦上川をまたぐ鉄橋のレール修復を担当。空襲の見張りをしていて、浦上川に大勢の人が水を飲みに来ているのが見えた。辺りには異臭が漂い、岸には黒焦げになった遺体が山のように積み上げられていた。昼食に白米のにぎり飯2個を支給されたが、さすがに食べる気になれなかった。

浦上での復旧工事は3、4日で終わり、田平に戻った。「目が真っ赤になっている」と地元の同僚から言われ、寝不足だったことに気付いた。工事中にいつ眠り、何を食べて働いていたのか。無我夢中だったこと以外、よく思い出せない。

玉音放送を聞いた15日は「ようやく終わった」と、ほっとした気持ちだった。

<私の願い>

陸軍に徴集された兄は1945年、インドネシア沖で戦死した。兄が存命だったら翌年、国鉄を辞めて実家の農業を継ぐこともなかっただろう。退職したため、直接被爆でなくても被爆者健康手帳を受けられることを80年まで知らなかった。人生を狂わせた戦争が二度と繰り返されないことを願う。

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