田中ノブ子
田中ノブ子(72)
田中ノブ子さん(72)
爆心地から6キロの西彼長与村丸田郷で被爆
=長崎市清水町=

私の被爆ノート

たき火のように真っ赤な空

2012年3月8日 掲載
田中ノブ子
田中ノブ子(72) 田中ノブ子さん(72)
爆心地から6キロの西彼長与村丸田郷で被爆
=長崎市清水町=

当時5歳。父は三菱重工長崎造船所の社員で、長与村(現長与町)丸田郷の社宅に両親と姉、弟の5人で暮らしていた。社宅近くに川があり、姉や同じ社宅に住む姉の友達らとエビやメダカを食器ですくってよく遊んでいた。

8月9日も、数人と川の中で遊んでいた。飛行機が大村湾方面から低く飛んできたのを見て、姉たちは「B29だ」と叫び、逃げていった。私は訳が分からないまま川から上がって、橋の上で長崎市方面へ向かう飛行機を眺めた。その機体からオレンジ色の玉が、らせん状に落ちたのが見えたように思う。その玉がパッとはじけた。恐怖から約100メートル離れた自宅方向に走り、近所の庭の物干し台に干された布団の間に頭だけ突っ込んだ瞬間、ものすごい爆風に襲われた。布団と一緒に地面に転び、窓ガラスがバリバリと割れる音が聞こえた。見上げた空は、たき火で燃やしたように真っ赤だった。

家に戻ると母はいなかった。ガラスで顔を切った父が心配して来てくれた。姉が社宅の友人宅に逃げて無事だったことも分かり、父はそのまま職場へ向かったようだった。母は近所で、けがをした女性を社宅の人たちと介抱していた。女性の洋服はちぎれ、首のあたりが紫色になっていた。

長崎市中心部から救援列車が長与駅に着き、たくさんのけが人が運ばれてきたと聞いた。近所のおじさんに誘われ、様子を見に行った。

駅近くの広場にはむしろが敷かれ、数え切れないほどのけが人がぼろぼろに焼けた服のまま寝かされていた。「水を、水を」と言う小さな声があまりにもかわいそうだった。広場に井戸があったので、おじさんに「水ば飲ませてやって」と泣いて頼んだが「水ば飲ませたら死ぬと」と言われ、飲ませてあげられなかった。むしろは目が粗く痛そうなので交換してあげてほしいと言ったが、うるさかったのか、おじさんに「帰れ」と言われ、帰宅した。そこから先の記憶はない。

<私の願い>

なぜ戦争をしなければならなかったのだろうか。戦後何十年たっても、たくさんの人が原爆の後遺症で苦しんでいる。核兵器廃絶は絶対に成し遂げなければならない。

長崎市松山町付近を通ると、爆心地公園に寄って必ず手を合わせるようにしている。戦争は二度としてはならない。

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