山田 和子
山田 和子(78)
山田和子さん(78)
入市被爆
=五島市小泊町=

私の被爆ノート

私を待ち死んだ伯母

2012年2月2日 掲載
山田 和子
山田 和子(78) 山田和子さん(78)
入市被爆
=五島市小泊町=

五島の福江国民学校6年生で11歳だった。父は戦地に出向き、当時の福江町に母と祖母、弟2人の5人暮らし。一方で長崎市山里町には2世帯に伯母3人とその子ども4人が住んでいた。あの日、伯母たちは私たちを待っていたはずだ。

1945年、五島も空襲を受け、艦砲射撃されるとのうわさが広がっていた。心配した長崎の伯母の一人から手紙が届いた。福江から長崎に来て、一緒に伊木力へ疎開するよう促すものだった。5、6歳まで浦上天主堂近くで暮らしたので長崎に行くのは楽しみだった。

しかし、長崎と福江を行き来する連絡船「長福丸」が米軍機に攻撃され死傷者が出たと聞き、家族はためらった。しばらくすると「長崎に新型爆弾」のニュース。伯母たちへの電話は通じず電報に返事はなかった。

原爆投下の10日後、母、弟と長崎に渡った。電車も家々も姿を消した光景にただ驚いた。大波止から山里まで歩いた。カラスが群がる場所に近づくと、腐乱した人間の遺体をついばんでおり、たまらなかった。一見、土が山盛りになった所は道端で死んだ人々を集めて火葬した跡だった。

伯母たちの消息がつかめぬまま4、5日すぎ、母は一人の伯母宅の跡を掘った。何も出てこない。だが翌日、別の叔母2人が同居していた家の跡を掘ると骨が出てきた。母は骨のそばに残ったもんぺの結び目や金歯などから伯母3人を特定。いとこと思われる小さな骨もたくさん見つかった。泣きながら丁寧に拾った。

その後、本来なら伯母たちと一緒に疎開するはずだった伊木力へ。たどり着くと、受け入れ先のおばさんが母を見るなり「あんたたちば待って死んでしもたとよ」と怒鳴り、涙を流した。山里の伯母ら7人のうち生き残ったのは学徒動員されていた10代半ばのいとこ1人だけだった。

私たちを待たずに先に疎開していれば伯母たちは生きていたと思う。8月9日は毎年、伯母らが眠る福江の墓前で謝っている。

<私の願い>

2005年ごろまで自分の被爆体験をずっと話せなかったが、語り継いでいきたいと思った。絶対に原爆を造っても使ってもいけない。夏が来るたびに亡くなった肉親や友人のことを思い起こし、悲しみの涙を流す。二度とこのような涙を流さないよう平和な地球にするための努力を積み重ねたい。

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