中村 一俊
中村 一俊(78)
中村一俊さん(78)
爆心地から1・8キロの長崎市本原2丁目で被爆
=長崎市木鉢町1丁目=

私の被爆ノート

少年に水やれず後悔

2011年12月29日 掲載
中村 一俊
中村 一俊(78) 中村一俊さん(78)
爆心地から1・8キロの長崎市本原2丁目で被爆
=長崎市木鉢町1丁目=

山里町の自宅に弟2人と姉の幼い子ども2人を残し、朝から母と本原2丁目(現在の辻町)の知り合いの家を訪れていた。当時11歳。すぐ帰るつもりだったが、その家の男の子が「もっと遊ぼう」と引き留めたため、しばらく残ることにして母は先に帰った。

男の子と近くの川で水をくみ、戻った時、音と光と衝撃に同時に襲われた。気が付くと倒壊した家の下敷きになっていた。すすが舞い、息苦しかったが必死になって男の子と一緒に脱出。爆風で吹き上がったごみやちり。その向こうの自宅方角は火の海だと分かった。

母や弟たちが無事でないことは子ども心にも分かった。頭に浮かんだのは立神の造船所に勤める父。「父と会えなければ天涯孤独になる」。ひたすら南を目指し歩いた。

途中、高台の墓地で、倒れていた少年が弁当箱を差し出してきた。「水ばくれんね」。少年は丘の下で光る水田を指さした。「戻ったらくんでやるけん、頑張っとかんね」と答えると、少年はうなずいた。

1時間ほど歩いていると、対向してくる行列の中に父を見つけた。泣いて飛び付いた。奇跡だった。「生きとったか」。喜ぶ父に、母たちの生死が分からないことを伝えると「捜しに行こうか」と声を絞り出した。少年との約束が気になって急いで戻ったが息絶えていた。悪いことをしたと今でも後悔している。

母の行方は分からなかった。家の外で遊んでいたらしい弟や姉の子どもは全員、遺体で見つかり、父と2人で火葬。昭和町付近で被爆した姉は、全身に赤い斑点が出て1カ月後に亡くなった。

60歳ごろから病魔に次々襲われ、「原爆と無関係とは思えない」と医師に告げられた。家族6人を奪われ、次は自分かと思うと悔しくてたまらなかった。誰にも話してこなかった原爆について語りたいと考えるようになり、被爆体験の語り部になった。真剣に話を聞いてくれる子どもたちの姿を見ると、語ることを決意してよかったと思う。

<私の願い>

核兵器は私から家族を奪い、健康な体をむしばんだ。世界からすべての核兵器をなくすことが一番の願いだ。ただ、元をたどれば戦争に至ったこと自体が愚かな判断だった。戦争では罪のない人がたくさん亡くなった。戦争では良いも悪いもない。若い人たちには戦争の愚かさを伝えていきたい。

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