吉野ツギノ
吉野ツギノ(82)
吉野ツギノさん(82)
爆心地から0・7キロの長崎市坂本町で被爆
=諫早市高来町=

私の被爆ノート

「生きる力 ありがとう」

2011年12月1日 掲載
吉野ツギノ
吉野ツギノ(82) 吉野ツギノさん(82)
爆心地から0・7キロの長崎市坂本町で被爆
=諫早市高来町=

数日間、「もう死んでもいい」と何度か思った。生きる力をくれたのは家族、そして20歳代の一人の兵隊さん。帽子には「ヤナギサワ」と縫ってあった。

疎開先の諫早市長田から、勤務先の三菱重工長崎造船所幸町工場に列車で通う毎日。8月9日は、坂本町の山中で防空壕(ごう)を掘っていた。突然、壕の入り口付近で中に吹き飛ばされ、顔とひざにけがをした。歩くのもつらかった。喉が渇いて濁り水をすすり、地面に転がっていたキュウリを食べた。丸2日間、けが人と死体の間に折り重なるようにして眠った。

3日目。ふと家族の姿が目に浮かんだ。「こんなふうに倒れとって、死んではだめだ。みんなに会いたい。帰ろう」。そう思うと元気が出てきて、大橋町の方角に歩きだした。

ヤナギサワさんと出会ったのは同町近く。行き先を尋ねられ、長田だと答えると「鳥栖まで行くから背中に乗りなさい」と背負ってくれようとした。自分たちが引き起こした戦争で長崎に爆弾が落ちたことに責任を感じているかのように「すまんなあ、すまんなあ」としきりに謝っていた。

道ノ尾駅で一緒に列車に乗るとき、窓ガラスに私自身の姿が映った。あの日以来初めて見る16歳の顔は、真っ黒に焼けて無残。恐ろしくなり、手で顔を覆った。

走りだした列車は、長与駅付近で止まり、空襲警報が鳴った。「逃げよう」とヤナギサワさん。私は「もう逃げきれません。先に逃げてください」と言って座席の下に隠れた。疲れ果て、もうここで死んでも構わないと思った。すると「あなたが死ぬときは僕も一緒」と体にかぶさるようにかばってくれた。

「あなたは若いから死ぬのなんの言わずに頑張りなさい。今まで生き残ったのだから元気にならなくては」。今も忘れられない言葉。

長田駅に着くと、ヤナギサワさんは、私の体を抱えてホームに下ろし、また列車に乗り込んだ。窓から身を乗り出し、帽子を振りながら「元気で頑張りなさいね。さようなら、さようなら」と見送ってくれた。再会は果たせていない。できることなら会ってお礼が言いたい。「生きる力をくれてありがとうございました」と。

<私の願い>

みんなが不幸になる戦争は絶対にしてはいけない。原爆の恐ろしさは実際に遭ってみないと分かりません。「あなたは原爆手帳を持ってるから、病院代が無料になるもんね。いつでも好きな時に病院に行けていいね」と心ないことを言われるのが一番つらく感じます。

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