太田 寛
太田 寛(75)
太田寛さん(75)
爆心地から3・4キロの西浜町で被爆
=佐世保市針尾北町=

私の被爆ノート

跡形もなく消えた自宅

2011年10月13日 掲載
太田 寛
太田 寛(75) 太田寛さん(75)
爆心地から3・4キロの西浜町で被爆
=佐世保市針尾北町=

当時9歳で山里国民学校(現長崎市立山里小)の2年か3年だった。

あの日は三つ年下の弟と、まだ赤ちゃんだった妹をおんぶした母と岡政(今年7月に閉店した博多大丸長崎店の前身)に買い物に出掛けていた。

警戒警報が鳴ったのだろうか、「危ないから入りなさい」と知らない人に呼ばれて近くの防空壕(ごう)に隠れた。それからすぐ、ピカッと何かが光り、雷かと思っていたら、壕の中に生暖かい風が流れてきたのを覚えている。

どれくらいの時間を壕で過ごしたろうか。母、弟、妹と壕を出て、自宅があった岡町へ向かった。市中心部の被害は大きくなかったが、ガラスやがれきが散乱していた。その上をはだしで歩き、転んで足にけがを負いながら必死に自宅を目指した。

浦上は本当に哀れなものだった。丸焦げになった馬や人がごろごろ転がっていた。髪の毛は燃え、着物はぼろぼろで裸同然の人たちが「水をくれ、水をくれ」と言っていた。生き残った人々は、焼け野原を歩いて家族を捜したり、遺骨や遺品を集めて弔いの準備をしているようだった。

自宅も隣の家の跡形もなく、近くにあった大きなクスノキは燃えていた。自分が立っている場所がどこなのかさえ分からないほどに。

その後、別の防空壕に避難していて無事だった父と再会。家族みんなで道の尾駅から汽車に乗り、親戚が住む佐世保市江上町へ移った。汽車には死人や病人も一緒に乗せられていたようだった。

戦時中、竹やりの練習を共にした友人たちが生き延びたのか死んだのか、今も知らない。命が助かっただけ良かったと思って生きてきたが、たくさんの病気にかかった。父を白血病で亡くした。すべては原爆の影響だったのかもしれない-と、年を取った今、思う。

<私の願い>

戦時中を生きた人にしか分からない苦しみや悲しみがある。孫たちにはこんな哀れな思いは絶対にさせたくない。戦争は二度としてはならない。また、東日本大震災後には原発の影響で多くの人がつらい思いをしている。若い人たちに、原子力を使わない平和な世界をつくってほしい。

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