中島 喩
中島 喩(93)
中島喩さん(93)
爆心地から1・1キロの大橋町で被爆
=長崎市かき道2丁目=

私の被爆ノート

頭の血に意識遠のく

2011年9月29日 掲載
中島 喩
中島 喩(93) 中島喩さん(93)
爆心地から1・1キロの大橋町で被爆
=長崎市かき道2丁目=

あの日のことは90歳を過ぎた今でも昨日のことのように覚えている。

三菱重工長崎兵器製作所大橋工場に勤務していた。27歳だった。庶務係としてさまざまな雑務をこなし、工員の身の回りの世話に当たっていた。朝8時には出勤し、ラジオを聴いて市などから発表される情報を皆に知らせるのが日課となっていた。

事務所でラジオを聴いていると、午前10時を過ぎたころ「市民は全員退避を」との放送が耳に飛び込んできた。敵の飛行機が数機向かっているらしかった。空襲警報は何十回も発令されたが、自分のいた工場が攻撃を受けたことは一度もなく「今回も大丈夫だろう」と考えていた。

事務所では十数人が机を並べていた。時計に目をやると11時を少し過ぎたころだったと思う。隣の社員と話をしていると、爆音と強い光が辺りを包んだ。何が起きたか分からず、急いで机の下に潜り込んだ。

しばらくすると天井から水がしたたり落ちてきた。しかし事務所に水道は引いていないはず。何かが落ちてきたのだろうか。水だと思っていたのは頭から流れる自分の血だった。深い谷底に引きずり込まれるように意識が遠のき、目の前が真っ暗になった。

「助けて中島さん」と声が聞こえて、気が付いた。隣の席の女の子が頭にけがをして倒れていた。その子を抱きかかえて外の防空壕(ごう)に避難した。壕にも多くのけが人がいて、重傷者を救援列車に乗せる手助けをした。

夕方になり、立山にあった自宅に帰るため線路に沿って一人で歩いた。辺りは見渡す限りの焼け野原。何もかもが壊されてしまっていた。果たしてどれくらいの人が亡くなったのか、その時はまるで分からなかった。

工場も見る影がないほどに破壊されていた。当時、多くの魚雷を製造していた重要な兵器工場。それを見た瞬間「これで日本は負けたな」と感じた。

<私の願い>

自分の体験を多くの人に知ってほしいと強く感じている。この年になって、あらためて原爆が落とされた後の惨状を将来のためにも残さなければいけないと思うようになった。こんな悲惨なことはもう二度と起こってはならない。

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