浦川トシヱ
浦川トシヱ(87)
浦川トシヱさん(87)
入市被爆
=長崎市大園町=

私の被爆ノート

病棟は足の踏み場なく

2011年9月1日 掲載
浦川トシヱ
浦川トシヱ(87) 浦川トシヱさん(87)
入市被爆
=長崎市大園町=

佐賀県千代田町(現神埼市)出身。看護師免許取得後の1944年4月、日赤佐賀県支部から大村海軍病院に召集された。「あそこは肺結核の病院だから行くな」。母はそう言って泣いたが、召集を受けたからには自らの責務を果たしたかった。

1年余りの伝染病棟勤務の後、戦傷病棟に配属された。戦地から病院船で重症患者が次々と運び込まれる毎日だった。8月9日-。朝からラジオ体操や病棟の申し送りを済ませ、医療機器の消毒や患者の包帯交換をしていると、フラッシュのような光が走り、ドーンというものすごい音がした。しばらくすると、西の空から灰色のきのこ雲が上がった。

2、3時間後、「長崎市内に新型爆弾投下され死傷者多数発生し市内全滅」の報。救護班の一員となり、木炭トラックに医薬品などを積み込んで長崎に向かった。日見トンネルを越え、長崎駅付近に入ると景色は一変した。電車は破壊され、建物は倒壊。火と煙で思うように進めず、長崎医科大が見える小さな橋の上に救護所を設けた。

全身やけど、顔面流血、体中にガラスや鉄片が刺さった痛ましい姿-。力尽きた母親の上に横たわる幼子もいた。路上の重傷者までは手が回らず、救護所まで自力でたどり着ける患者だけを応急処置するのが精いっぱいだった。

十数時間後、医薬品は底をつき、限られた軽症患者をトラックに乗せて病院に戻った。到着したのは翌10日の午前2時を回っていたと記憶している。朝になると、長崎から負傷者が続々と運び込まれた。衣類は引き裂かれ、裸同然で目だけをぎょろぎょろさせている人や年齢、性別も分からない重傷患者で病棟や娯楽室はあふれ、足の踏み場もなかった。

さらに蒸し風呂のような暑さと異臭、悪臭、死臭-。薄暗い電灯の下で、「水をください」とあちこちから小声が聞こえてくるが、どの患者が生きていて、だれが死んでいるのかさえ区別がつかない状態だった。決して泣いてはならない立場だったが、心の中では毎日が涙の連続だった。

<私の願い>

1945年11月末、召集解除で佐賀に戻った。生涯忘れようにも忘れられない出来事。みんなが幸せであるために、二度と核兵器を使ってはいけないし、平和であってほしい。戦争は絶対に嫌です。

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