一瀬 比郎
一瀬 比郎(77)
一瀬比郎さん(77)
爆心地から2・5キロの西山町4丁目で被爆
=長崎市戸町4丁目=

私の被爆ノート

黒い雨服に灰色の粉

2011年8月11日 掲載
一瀬 比郎
一瀬 比郎(77) 一瀬比郎さん(77)
爆心地から2・5キロの西山町4丁目で被爆
=長崎市戸町4丁目=

当時11歳。上長崎国民学校の6年生だった。よく晴れて、セミがうるさく鳴いていた。登校日だったので学校で過ごしていたが、午前10時ごろ警戒警報が出て、下校することになった。

帰る途中、下級生5人と一緒に飛行機の燃料に使う松の油を採ろうと、西山町4丁目のカボチャ畑に向かった。着いてしばらくすると、飛行機のごう音が聞こえてきた。空を眺めていると、目の前に落下傘が見えた。直後、白い閃光(せんこう)がピカーッと走り、ものすごい爆風がきた。反射的に地面に伏せた。すぐに灰色の雲が、まるで生きているかのようにもくもくと立ち上り、迫ってくるのが見えた。この世のものとは思えない光景だった。

何が起こったか分からなかったが「はよ帰らんば」。そう思い、仲間と散り散りに逃げ出した。途中で黒い雨がザーッと降ってきたが、無我夢中で走った。片淵3丁目の自宅にたどり着いたころには履いていた草履の鼻緒が切れていた。ずぶぬれになったので、着ていたシャツを脱いで絞ってみると、砂みたいな灰色の粉が付着していた。

8月20日。何が起こったのか知りたくて1人で浦上方面に向かって歩いた。町は焼け野原と化し、路面電車は止まったまま。髪の毛が抜けた人や、やけどを負った人と擦れ違う。中町教会の近くで、がれきに足を挟まれたまま、立ち上がれずもがいている馬を見た。八千代町まで歩いたが、あまりの惨状に「これ以上は行けない」と諦めた。

あの日、別の場所で被爆した家族は皆無事だったが、多くの親戚を一度に失った。自分自身に外傷はなかったものの、白い光を直視したからなのか、被爆直後に一気に視力が落ちた。あの日の体験は心に深い傷となっているが、今は、生かされている喜びを感じながら毎日を過ごしている。

<私の願い>

戦争はおろかで、むなしいもの。核と人類は共生できないと思う。美しい自然と、戦争のない平和な地球を守ってほしい。最近は自ら命を絶つ人もいて残念だ。若い人には好奇心を持ち、挫折しても諦めない心を持ち続けることの大切さと、誰も皆、生まれてきた意味があることを伝えたい。

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