橋本富太郎さん(75)
被爆当時1歳 爆心地から4キロの西小島町で被爆

私の被爆ノート

今も続く病気の連鎖

2019年5月16日 掲載
橋本富太郎さん(75) 被爆当時1歳 爆心地から4キロの西小島町で被爆

 被爆当時は1歳10カ月で記憶はないが、話は両親から伝え聞いている。長崎市西小島町に祖父、両親と4人で暮らしていた。あの日、祖父は外出しており、郵便局員の父は勤務中で、私と母が自宅にいた。
 母によると、空襲警報が鳴り、母は私を背負って家を飛び出し、細い石段の道を登って防空壕(ごう)に避難した。当時は空襲警報が頻繁に鳴っていて、私が最初に覚えた言葉は“空襲警報解除”の「カイジョ」だったらしい。
 母は防空壕の中から爆発のごう音を聞き、しばらくしてから外へ出た。長崎の町は悲惨な状態になっていたが、煙などに遮られていたのか、全然見えなかったという。
 外にいた父や祖父も大きなけがはせず、生き残った。父は長崎駅前付近にいて、原爆の爆風で吹き飛ばされたが、幸運にも道路脇に掘られていた地下壕の中に落ちて、難を逃れた。
 父は翌日から、同僚の郵便局職員らの食料確保に奔走した。自転車で近郊の農村部へ買い出しに行く際に爆心地付近を通ると、人の遺体や牛馬の死体が無残に転がり、地獄絵図のような光景が広がっていたという。祖父は翌年に他界したが、原爆の影響があったとは聞いていない。
 その後転居を繰り返し、爆心地近くの山里小に通った。同級生や上級生には、被爆の影響で手や腕に火傷の跡が残る児童がたくさんいた。私は小学生時代は病気をすることもなく元気に過ごした。
 ところが中学2年の時、突然顔が腫れ上がり「お月さん」のようになった。病院で「急性腎盂(じんう)炎」と診断され、原因不明で全治半年から1年と言われた。食欲が落ちて体も弱くなった。結局1年間留年し、中学校に4年間通った。
 友人には被爆の後遺症で命を落とした人が数人いる。被爆から17年がたった19歳の時、高校を卒業したばかりの友人の女性が白血病で入院した。知らせを聞いた翌日に亡くなってしまい、見舞いにも行けなかった。
 同級生たちも病気で次々に亡くなっていった。私は1958年8月に被爆者健康手帳を交付された。現在も病気と闘っている。52歳の時に大腸ポリープを切除し、67歳で大腸がんを発症した。73歳の時には前立腺がんが見つかった。こうした病気の連鎖は、おそらく被爆の影響ではないかと思っている。

<私の願い>

 国ごとに文化や価値観も異なり、自国の価値観だけを押し通そうとするのは危険。日本は戦争で何を学んだのか、それを考え直すことが必要だと思う。積み上げた平和の歴史を簡単に汚してはならない。戦争をしたら何も残らないのだから。

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