深井 治夫
深井 治夫(77)
深井 治夫さん(77)
爆心地から1.5キロ、井樋の口(現在の銭座町)で被爆
=長崎市三原1丁目=

私の被爆ノート

帰らぬ父捜し歩き回る

2004年9月16日 掲載
深井 治夫
深井 治夫(77) 深井 治夫さん(77)
爆心地から1.5キロ、井樋の口(現在の銭座町)で被爆
=長崎市三原1丁目=

原爆が投下される十日ほど前、勤め先の三菱長崎造船所で、防空壕(ごう)内の排気管を取り付ける溶接作業中、左指をけがした。その後、休みを命じられ、自宅で療養していた。

九日午前十時ごろ、自宅近くの山里小の屋上から「空襲警報解除」を告げる声が聞こえた。その日、飽ノ浦の病院に診察に行くつもりだった私は、解除を聞くなり、本原の自宅を飛び出した。

大橋電停から電車に乗り、井樋の口付近を走っていると、ピカッと青白い閃光(せんこう)が走った。数秒後、ものすごい爆風が襲ってきて、電車がグラグラ揺れた。窓ガラスは粉々に割れ、私は頭を抱え込んだ。気が付いたら、電車の外に立っていた。辺りは、煙とほこりで何も見えなかった。

買ったばかりの帽子がないのに気づき、また電車の中に入った。ほぼ満員だった車内は、足の踏み場もないほど人が倒れていた。身体を触ると、額にかすり傷があり、血が出ていた。

「とにかく自宅に帰らなければ」と思った。ほこりが消えると、家は倒れ、人が転がっていた。遺体は赤く焼けただれ、空をつかもうとするかのように指を立てていた。この世の地獄とは、まさにこのことだろうか。

家に戻ると、家中の畳がひっくり返っていた。母と弟たちは近くの防空壕に逃げ、無事だったが、父親は夜になっても戻ってこなかった。

父はその朝、「浜町の歯医者に行く」と言い、隣に住むおじさんと出掛けた。しかし、電車がなかなか来ず、痛みに耐えかねた父は「近くの歯医者に行く」と、松山町電停でおじさんと別れたという。おじさんは、そのまま戸町まで行き、難を免れた。

私は翌日から約一カ月間、父を捜して松山町付近を歩き回った。目まいに襲われながらも、西浦上、竹の久保、城山の周辺、諫早、大村にも足を延ばしたが、手掛かりさえ見つけることはできなかった。
<私の願い>
原爆の苦しみは私たちでたくさん。日本政府は被爆国でありながら、核武装論が台頭し、憲法九条改正まで叫ばれている。日本が戦争をする国にならないよう、世界の平和と核兵器廃絶を急いで実現してほしい。

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