熊本ツギノ
熊本ツギノ(84)
爆心地から約4キロの西小島で被爆
=西彼西彼町上岳郷、原爆被害者特別養護ホームかめだけ=

私の被爆ノート

健康な体を返して

2002年3月8日 掲載
熊本ツギノ
熊本ツギノ(84) 爆心地から約4キロの西小島で被爆
=西彼西彼町上岳郷、原爆被害者特別養護ホームかめだけ=

被爆当時、私は二十七歳。父は仕事に出ていて、長崎市西小島の自宅には母と私、三人の弟妹の五人がいた。空襲警報のサイレンが鳴り、防空ごうに避難しようとしたが間に合わず、押し入れの中に逃げ込んで身を寄せ合っていた。何か「ピカッ」と光ったような気がした。続いてものすごい音がして、五人とも長い時間、押し入れから出ることができなかった。

家はほとんど傷んではいなかったと思う。しかし、恐ろしくて町に出る気になれず、何が起きたのか確認できなかった。夜遅く、ようやく父が帰宅してきたため家族も安心したが、多くの人が亡くなったり、けがをしたりしていたと町の様子を話していた。

近所の人たちも、家や工場などが壊れて町の中は地獄のようで、浦上川には多くの人が水を求めに行きそのまま亡くなった、などと話しているのを聞いた。

私もそのうち、原爆が原因と思われる病気に悩まされることになった。心臓など内臓が悪くなって病院にお世話になることが増えた。ぜんそくは特にひどく、発作が起こるとなかなか止まらなかった。今も冬場には風邪をひかないように気を付けている。

腸も弱くて便秘にも悩まされてきた。夏場は汗びっしょりになって頑張るが出ない。「つらいだろうが、頑張って」と励まされたが、苦しくてたまらなかった。

子供はできず、船乗りだった主人も亡くなり一人になった。私はあの日以来、病院を転々としてきたような気がする。八十歳を過ぎて足腰も弱り、こうしてベッドに寝ている状態が増え、なんの楽しみもないようになった。私の一生は原爆に変えられた。治る見込みのない病気を持つことほど、つらいことはない。健康な体を返してほしい。
<私の願い>
原爆では私よりも若い人が多く亡くなった。生き延びた人も、私と同じように今でも原爆の後遺症で苦しんでいる。二度とあんな過ちを繰り返さないでほしい。いまなお世界各地で紛争が起きているが、即刻やめてほしいと願っている。

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