松尾榮千子さん(78)
被爆当時4歳 爆心地から8.1キロの西彼日見村(当時)で原爆に遭う

私の被爆ノート

強い貧血 流産3回

2019年04月04日 掲載
松尾榮千子さん(78) 被爆当時4歳 爆心地から8.1キロの西彼日見村(当時)で原爆に遭う

 あの日、西彼杵郡日見村(現長崎市網場町)の自宅近くの海岸で近所の3歳の女児と泥遊びをしていた。すると急にピカッと光った。同時に強い風が吹いて飛ばされそうになった。石ころが飛んできて体に当たる。海岸の泥も舞い上がっていた。すぐに辺りが夕方のように暗くなった。
 やけどや大きなけがは負わなかったが、近くにあった女児の家に駆け込んだ。その家は壁がトタン板と土でできていたが、一部のトタン板ははがれて、土壁の一部が崩れていた。しばらくすると父が迎えに来て近くにある暗きょに避難した。中には近所の人が10人ぐらい避難していた。そこで1時間ぐらい居てから自宅に戻った。
 当時は自宅で両親ときょうだいの7人暮らし。当時、15歳だった姉は徒歩で長崎市の中心部に向かっていた際に被爆。昼ごろに自力で自宅に帰ってきた。髪の毛が抜けたり、何度も吐いたりしてひどく苦しんでいた。自宅近くには市内から灰が飛んできて木々の葉っぱに積もっていた。
 翌10日に、母親と知り合いのおばさんと一緒に同市の中心部に行った-。そう亡くなった姉からは聞いた。おばさんの息子を捜すためだったようだ。母は私がまだ小さくて目が離せないので一緒に連れて行ったのだろう。詳しいことは覚えていないが、路面電車の線路や、辺りに建物がない所に人の死体が転がっていたことだけを覚えている。
 しばらくして私も自宅で寝込んだ。1人で座ることができないので、父と母が食事を食べさせてくれた。すぐにふらついて、何かにつかまらないと立っていられなかった。あの日に一緒に遊んでいた女児は小学2年生のときに白血病で亡くなった。
 その後、24歳で結婚。2、3年のうちに3度も流産して「もう子どもは産めないのか」と思った。27歳で長男を出産したときはうれしかったし、何よりもほっとした。
 かなり強い貧血や疲れやすい症状は60代まで続いた。1990年に乳がんと診断されたときは、目の前が真っ暗になった。医師の声もかすかにしか聞こえない。それから再発などもあり3回手術した。
 被爆体験者精神医療受給者証を2002年に取得。その後、被爆者健康手帳の交付を市に求めたが証人がいないために認められなかった。同市中心部に行ったことを知っている母も姉も、おばさんもすでに亡くなっていた。

<私の願い>

 健康被害があるのに原爆の影響と認められないことに腹が立つ。医療費や通院するバス代が大きな負担になる。国が戦争をして市民をひどい目に遭わせたのだから、被爆者と認め医療費も負担すべきだ。戦争は絶対に駄目。平和が続いてほしい。

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