喜々津浅夫
喜々津浅夫(78)
爆心地から1.1キロ、長崎市赤迫のトンネル工場で被爆 =西彼長与町岡郷=

私の被爆ノート

女性の悲鳴 今も耳に

1998年11月4日 掲載
喜々津浅夫
喜々津浅夫(78) 爆心地から1.1キロ、長崎市赤迫のトンネル工場で被爆 =西彼長与町岡郷=

当時二十五歳。三菱長崎兵器製作所大橋工場に勤務していた。空襲を避けるため、住吉・赤迫地区にトンネル工場が造られ、そこで魚雷の製作が続けられていた。一週間ほど前からこの工場で仕事をしていた。

その日も朝八時ごろ出勤し、作業の段取りをして、出欠簿などを取って記録係に渡そうとした瞬間、いきなりものすごいごう音と同時に、トンネル内は真っ暗になり、立っていた場所から五、六メートル吹き飛ばされた。幸いかすり傷一つ負わなかった。

何が何だか分からないまま、外に出てみると負傷者が倒れ、浦上方向の空は真っ黒だった。トンネル内にどれくらいの人がいたか覚えていないが、元気な者を連れて本工場へ応援に行ったものの、コンクリート造りの本館が辛うじて建っているだけで、工場はめちゃめちゃ、むき出しの鉄筋はあめのように折れ曲がっていた。途中「助けて」という声が聞こえるが、がれきの下で引き出すこともできなかった。

昼二時ごろ、造船所に救援隊を要請するため二人で出発した。負傷した人たちが「水を飲ませてくれ」と言って足にすがりついてくるがどうしようもなかった。大橋近くの川べりでは、水を飲もうとしたのか多くの人が死んだり、もだえ苦しんでいた。

大橋の電車通りと長崎バイパスが交差する近くに女子寮があったが、何が原因だったのか爆発した。そのときの女性たちの悲鳴は今でも耳の底にこびり付いている。

どこをどうして行ったか、造船所に着いたのは六時ごろだった。報告を終えて再び大橋へ戻るのが大変だった。夜中近くだったが、長崎市内の人々は家族の安否、家のことなどで帰ったのか、残っているのは近郊の人やよそから来ている人たちで、とても団体行動が取れるような状況ではなかった。

翌日昼すぎに岡郷の自宅に帰ったが、夜になっても、夜が明けても帰ってこないため、家族もあきらめ半分の状態だった。トンネル工場勤務で本当に「九死に一生を得た」思いで、車で赤迫を通るとトンネルの一部が見えるが「ここにいたおかげで命拾いをした」という思いとともに、あの時の惨状がまた、まぶたに浮かんでくる。
<私の願い>
広島、長崎といった悲惨な体験はわれわれだけで十分。核実験廃止をいいながら、臨界前核実験をするなど大国の言い分は矛盾している。核廃絶とともに、世界から戦争被害者がこれ以上増えないことを願っている。

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