森 重子
森 重子(61)
爆心地から約4キロの自宅近くの防空ごうで被爆
=長崎市八景町=

私の被爆ノート

血で染まった母の背中

1998年3月28日 掲載
森 重子
森 重子(61) 爆心地から約4キロの自宅近くの防空ごうで被爆
=長崎市八景町=

当時九歳。祖父母と両親、兄姉妹六人の十人家族で長崎市南山手町で暮らしていた。 「あの日」は空襲警報が解除になり、ほっとして防空ごうから出た。自宅に戻り、裏庭でおやつ代わりのキュウリをかじった。日差しが強く暑い日だった。

友達が忘れ物を取りに行くというので、ろうそくを持って一緒に防空ごうに戻った。薄暗いごう内に入っていたら…。

突然、ものすごい風。ろうそくが消えた暗やみの中で、火の固まりのようなものが見えた気がする。やがて近所の人が次々にごう内に入ってきて、口々に「何か大変な爆弾が落ちた」と言っていた。

しばらくして外に出ると、真昼なのに夕方のように暗い。すると一歳の妹を抱いた母が私を捜しに来た。母の背中は飛び散ったガラスの破片が突き刺さり、血で染まっていた。母は家で妹に乳を含ませていたが、心配してけがも構わず駆け付けてくれたのだった。

家族の中で、三歳年上の兄・澄(ますみ)だけが帰ってこなかった。兄は県立瓊浦中(竹の久保町)の一年生で、朝から試験のため登校していた。あの日、兄はどういうわけか「頭が痛い」と登校を渋っていたが、父は「男が頭痛ぐらいで休むな」としかって学校へ行かせたらしい。

それだけに父の悔やみようは大変なもの。翌日から母と一緒に毎日、爆心地に入って兄を捜し、疲れ切った顔で帰って来た。黒焦げの死体や、「水を」と足をつかむひん死の人たちの顔を一人ひとり見て回っていたと聞いた。

結局、兄は見つからなかった。瓊浦中で焼いたたくさんの死体から骨を一本だけもらい、葬式を済ませた。だが家族は皆、「兄がひょっこり元気な姿で帰ってくるのではないか」と思っていた。私は今もそう思っている。

原爆投下直後から爆心地を歩き回った影響だろうか。母は翌年の秋に寝込み、おう吐し続けて死んだ。その四カ月後、父も頭上から落下してきた鉄骨を避け切れず事故死した。私は今、二人とも原爆症だったのではないかと思っている。

残された私たち五人姉妹は、あちこちの親せきに預けられ離ればなれになった。しかし夏と冬の休みには、長崎の祖父母の元に帰り一緒に過ごした。休みが終わり長崎を離れる汽車に乗るときは、いつも涙が止まらず、目的地に着くまで涙がポロポロこぼれ落ちた。
<私の願い>
昨年退職してからは、できるだけ毎月九日の平和公園の座り込みに参加するようにしている。今も世界中で、女性や子供の戦争被害者がたくさん出ている。核兵器の被害者の一人として、戦争がなく、核兵器がない世界をつくるため少しでも行動したい。

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