山村 和夫
山村 和夫(59)
爆心地から1.9キロで被爆
=佐世保市石坂町=

私の被爆ノート

友達みんな犠牲に

1998年3月6日 掲載
山村 和夫
山村 和夫(59) 爆心地から1.9キロで被爆
=佐世保市石坂町=

小学一年の夏休みだった。自宅近くの稲佐公園で子供たち四-人と隠れんぼをしていた。

飛行機のの「ブーン」という爆音がした。父から「飛行機の音を聞いたら、押し入れに布団をかぶって入れ」ときつく言われていたので、急いで家に帰った。

二階に上がる階段下の押し入れに入った。布団をかぶった途端、ピカッとした。目をつぶってはいたが、力メラのフラッシュみたいなのが光ったのが分かった。

目を開けたら、かわらが落ちてきた。静まってから布団をのけてみると青空が見えた。家の二階がなくなっている。とにかくびっくりした。

外に出ると、近所の人たちに「避難しなさい」と言われた。はだしだったので、おばさんが足の裏にタオルを巻いてくれた。「早く逃げなさい。よかけん一緒に行こう」。おばさんの後に付いていった。道なき道、がれきの山を越えて近くの神社に着いた。

命の恩人だが、どこのおばさんか全然分からなかった。おばさんにしても、自分に付いてくる子は自分の子と一緒だったと思う。

神社の防空ごうで一晩過ごした。翌日、自宅に帰る途中で、真っ黒焦げの死体を二─三体見た。自宅付近は跡形もなく焼けて、のっぺらぼうだった。

一緒に遊んでいた友達はみんな死んだ。両親と姉は、私も死んだと思っていたらしく、私を見つけたときはぽかんとして声も出ないようだった。

その後、公園の防空ごうで一カ月過ごした。食料は玄米の握り飯を一日一個。十人ぐらいいるなかで、裏のおじさんは背中をやけどしていた。縁側で新聞を読んでいて、光の当たったところだけがただれていた。薬がないから治療という治療はできなかった。

体からうじ虫がわく光景だけは今も頭から離れない。(佐世保)

<私の願い>
核実験は賛成できない。長崎に落ちた原爆の何十倍も威力があるということだから、これが使われれば人類は破滅してしまう。自分たちの子供、孫の世代でも核が使われないようにしてもらいたい。

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