西田 清
西田 清(67)
爆心地から約0.7キロの国立長崎医科大学付属病院本館で被爆
=長崎市葉山1丁目=

私の被爆ノート

熱風吹き荒れ…ぼう然

1996年11月28日 掲載
西田 清
西田 清(67) 爆心地から約0.7キロの国立長崎医科大学付属病院本館で被爆
=長崎市葉山1丁目=

当時、市立長崎商業学校四年生の十六歳だった。学徒動員で三菱長崎造船所で働いていたが二、三日前に作業中に左足をけがしたため、国立長崎医科大学付属病院に診察を受けに行った。

午前十時ごろ病院に着き、一階にある外科の待合室で長いすに座り、名前が呼ばれるのを待っていた時だった。「ピカッ」とものすごいせん光が待合室の窓の外を走った。病院に爆弾が落ちたと思った瞬間、爆風で吹き飛ばされ意識を失った。

しばらくして幸いに意識を取り戻すことができたが、廊下を挟んだ反対の部屋の窓から、街が火に包まれているのが見えた。病院の中は真っ暗に近く、物が燃えるにおいで息が詰まりそうになった。玄関が近いことを思い出し、廊下を伝ってはうように玄関へ向かった。

玄関から外に出ると、周りは火の海で、熱風が吹き荒れていた。どうすることもできず、ただぼう然として立っていた。その時頭の左側にガラス片が刺さり、少し血が出ていることに気付いた。病院の玄関から若い看護婦さんが、大声で人の名前を呼びながら出てきたので、けがの応急処置をしてもらおうと声を掛けたが、狂乱状態でまた中に入っていった。

わたしは金比羅山に逃げようと思い、一人で段々畑を上っていった。昼ごろ、山頂の近くにある防空壕(ごう)に着き、中に腰掛けた。中には二十人ほどの人がいたが、だれも話す気力もなく、皆じっとして座っていた。ふと目の前で休んでいる人を見て驚いた。その人は右の肩から手の先まで、上半身の皮膚が垂れ下がるほどの大やけどをしていた。

山頂近くから浦上方面を見た。真っ黒い煙を空高く上げて燃えている様子が、今でも目に焼き付いている。隣にいた人に自宅がある西小島は燃えていないと聞いたので、家に戻ろうと山を下った。途中、畑のあぜ道で飛行機の爆音を聞いた時、また爆弾を落とされるのではないかと恐ろしくなり、生きた心地がしなかった。街はがれきやガラスの破片の山で、はだしでは歩けず、近くのおばさんにわら草履をもらい、救護所となっていた新興善小学校で頭の応急処置を受けた。
<私の願い>
この地球上から戦争がなくなり、世界の平和が永久に続くことを願っている。これからは文化や習慣が異なる多くの国々と交流を図り、お互いに協力して助け合っていく姿勢が大切だと思う。

原爆の悲惨さをよく知り、核戦争を防ぐため自分に何ができるか一人ひとりが考え、行動を起こしてほしい。

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