熊谷龍生さん(90)
被爆当時17歳 海軍特別幹部練習生

私の被爆ノート

入市被爆 洗えど取れぬ皮膚

2018年11月15日 掲載
熊谷龍生さん(90) 被爆当時17歳 海軍特別幹部練習生
 

 現在の福岡県朝倉市出身。旧制中学を卒業後、1945年5月8日、海軍特別幹部練習生として佐世保の相浦海兵団に入隊。17歳だった。
 2カ月の基礎訓練の後、7月からは針尾大崎砲台で、米軍との対空戦闘に明け暮れていた。8月9日は午前10時半ごろにB29爆撃機が2機飛来したが、長崎方面へ進路を変えたため空襲警報は解除。しばらくして長崎の上空が真っ赤に染まり、数分して遠雷のような音と地響きが続いた。
 13日、上官から「米軍が来ても射撃してはならない」と命令が出た。当時は「おかしいなあ」と思ったが、今考えると終戦交渉が始まっていたのだろうと思う。
 8月15日。「重大放送がある」と300人くらいいた隊員が集められ、終戦を知らされた。「朝倉に帰れる」と思った途端、上官が「名前を呼ばれたら前に出ろ」と命令。30人ほど呼ばれた中に自分の名もあった。装備してまた集まるように言われ、「長崎原爆海軍特別救援隊」として被爆地へ向かうことになった。
 針尾大崎砲台から国鉄早岐駅まで歩き、列車に乗った。道ノ尾駅で下車。最初に目に飛び込んだのは、葉が茶色になった稲佐山と金比羅山だった。「青々と茂るべき夏なのになぜ」と不思議に思った。私たちが入市するまでに6日が経過している。遺体は太陽に照らされて腐り、道端で遺体を焼くため、動物の焼けるような臭いがしていた。
 長崎での活動内容は、遺体を焼いたり、被爆者を救護したりすることだった。当時茂里町には、三菱兵器製作所茂里町工場があった。学徒動員で勤務していた学生の遺体を処理するため腕をつかむと、皮膚がずるっとむけた。袖を持って運んだが、その時に手に付いた皮膚が、洗っても洗っても取れなかった。この出来事が思い出され、食事は3日間のどを通らなかった。
 27日まで作業した。26日は上官が「苦労を掛けた。今日は休暇を取ってよろしい。良いところに連れて行ってやろう」と茂木へ海水浴に連れて行ってくれた。太陽が差し込み、青い海がきらきら光っていた。
 一生の中で、これほど強烈な思い出は他にない。
 28日に佐世保鎮守府へ戻り、復員の手続きをした。退職金をもらい、夜の列車で朝倉へ。帰宅後3日目ごろから血便や発熱などの症状が出た。病院では「原爆病だろう」と言われたが薬もなく、約40日入院した。

<私の願い>

 戦争の恐怖は言葉では言い表すことができない。戦争は人間を悪魔に変える。愛情はまひし、自分のことで精いっぱいになってしまう。直接体験した者として、戦争は絶対にしてはいけないと伝えたい。子どもたちには明るい国をつくってほしい。

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