カスタム検索
トップ
速報
動画ニュース
ピースサイト
企画・特集
スポーツ
ウェブ写真館
釣り
天気
お買い物
長崎新聞120年の歩み
>
10・昭和初頭の長崎日日新聞<下>
<10>
昭和初頭の長崎日日新聞<下>
緊迫の中国情勢詳しく
長崎港に避難船続々「十五年戦争」へ突入
■金融恐慌、全国へ
大正から昭和にかけての経済情勢は、第一次世界大戦後の長引く不況と、一九二三(大正十二)年の関東大震災の震災手形が膨大な不良債権と化し、債権回収ができず経営悪化に陥る中小銀行が相次ぐなど、経済界は深刻な打撃を受けていた。金融不安は地方にも波及、地方都市や農村の生活も圧迫した。
二七(昭和二)年三月十四日、衆議院予算委員会で、「不良銀行の名前を明示せよ」と追及された若槻礼次郎内閣(憲政会)の片岡直温蔵相は思わず「東京渡辺銀行が本日をもって破綻(はたん)した」と発言。預金者が銀行に殺到して預金を引き出そうとする取り付け騒ぎに発展した。「金融恐慌」の始まりだ。
実際には破綻していなかった東京渡辺銀行だったが、翌日から休業に追い込まれた。この騒ぎは他の中小銀行にも及び、瞬く間に全国に広がった。四月には新興財閥の鈴木商店が倒産。多額の債権が回収不能となった台湾銀行が休業に追い込まれた。これらの責任をとって四月二十日に若槻内閣は総辞職。政友会の田中義一内閣が成立し、同二十二日から二日間、銀行は全国一斉に臨時休業。三週間のモラトリアム(支払い猶予)が実施され、混乱の収拾が図られた。
■取り付け騒ぎも
金融恐慌について「長崎日日新聞」(長崎新聞の前身)は、「蔵相の失言が飛び火して渡辺銀行遂(つい)に休業」(三月十六日付)と速報。また、台湾銀行の休業では「臺(台)銀遂に臨時休業す〜18日より向こう3週間」(四月十九日付夕刊)、地方銀行の破綻が相次いだことには「財界の混亂(乱)は日一日と擴(拡)大さる」(同二十一日付)と連日報道した。銀行の全国一斉休業も「全國(国)銀行の總(総)休業〜空前にして恐らく絶後の椿事」と混乱ぶりを伝えている。
長崎でも四月二十一日午後、取り付け騒ぎが起こったが、営業終了間際だったことから大事に至らなかった。翌二十二日から二日間全国一斉休業に伴い、県内の銀行も休業。長崎商業会議所は「崎陽財界は安全」(同二十三日付夕刊)、日本銀行も「預金者は安心せよ〜徹底的に支拂(払)いを援助」(同二十六日付夕刊)と声明を出し、支払い用の札束を準備するなど混乱防止に躍起となったが、実際は「銀行より引き出した金より銀行に預けた金が多い」「折角の札束〜拍子抜けの有様」(同)。
やがて「休業中の銀行〜整理成って開店す〜財界安定の日近づく」(同二十七日付朝刊)と落ち着きを取り戻し、「台風一過後の長崎金融界」「各銀行は全く平穏に帰し手持無沙汰の観」(同夕刊)と混乱は沈静化していく。
■歴史的関係深く
金融恐慌を何とか乗り切った田中内閣だったが、外交面では中国における革命の進行と排日の機運、英米の進出などがあり、次第に緊張が強まっていく。本県と中国は歴史的に深い関係にあることから、「長崎日日新聞」では中国情勢の詳細な報道を続けている。
当時の中国は清朝末期に起こった軍閥が各地で勢力を張り、内戦や抗争を繰り返す状態にあった。〓介石を総司令とする国民革命軍が軍閥打倒のための北伐(南方から北方へ軍隊を動かし、北方勢力と戦うこと)を開始。一九二六(大正十五)年十月、武漢を攻略。翌二七(昭和二)年三月二十四日には南京に入城。上海にも迫った。南京では一部兵士が外国領事館を襲撃。日本領事館も約二百人の兵士に襲われた。
これに対して英、米両軍は南京に在住する自国民保護のため、停泊中の軍艦から艦砲射撃を開始。「長崎日日新聞」では同二十六日付夕刊でその模様を報じている。また、上海特置(派)員の同二十七日発として「大動亂の上海〜言語に絶する南軍の劫掠(=ごうりゃく、脅して奪い取ること)」(掲載は同三十一日付)と緊迫した状況を伝えた。
取り付け騒ぎに備え、十八銀行本店に用意された札束の山=1927年4月26日付「長崎日日新聞」夕刊から
銀行の全国一斉休業を報じた紙面=1927年4月23日付夕刊
預金者に支払いの援助と冷静な行動を呼び掛ける日本銀行の声明文=1927年4月26日付
■女性殺害される
四月三日には中国・武漢政府の部隊と日本海軍の陸戦隊が衝突する「漢口事件」が発生。「長崎日日新聞」紙面を見ると、「陸戰(戦)隊護衛の下に在留民を収容」(同五日付朝刊)、「漢口在留二千餘(余)の同胞〜形勢険悪の爲(為)全部引揚」「租界回収叫んで暴徒殺到し住宅を破壊し陸戰隊と衝突」(同夕刊)の見出しや記事で報道している。
この騒乱の最中、産後の肥立ちが悪くて病床に伏せっていた邦人女性が街路に引きずり出され、殺害されるという痛ましい事件が起きた(同八日付夕刊)。その後、「街頭で殺された女性は長崎の人〜實(実)兄が本社を訪問」(同九日付朝刊)し、亡くなった女性は長崎市出身の田村きまさん(当時二十八歳)だったことが分かった。
■着の身着のまま
南京、漢口事件後の治安の悪化で、長崎港には中国からの避難船が続々到着する。二七(昭和二)年四月七日付「長崎日日新聞」二面トップで、上海からの避難民を満載した連絡船「長崎丸」と混雑する出島岸壁の様子を四段抜きの写真付きで掲載。記事は「岸壁出來(来)て以來」「女と子供の避難者」「その混雑は名状すべからざる有様(ありさま)」などの見出しで報じている。
同十一日に長崎港に着いた「これあ丸」では漢口から約千三百人の日本人が着の身着のままで引き揚げてきた。上陸に際して天然痘や赤痢患者が見つかったことから騒然となり、約三時間も足止めに。その間のことは翌十二日付夕刊で「悲喜交々(こもごも)の同船内〜玉の様な子供まで生まれる」「どさくさ紛(まぎ)れに泥棒が出没する〜卒倒したり怪我(けが)したり」−などの見出しで伝えている。
■抗日の姿勢鮮明
〓介石が北伐を開始すると、日本は第一世界大戦後に得た山東半島における権益擁護と、日本人居留民の保護を理由に五月、山東半島に軍隊を派遣(第一次山東出兵)。翌二八(昭和三)年四月、北伐が再び動きだすと、この時も軍隊を派遣(第二次山東出兵)した。
日本軍が駐屯してまもなく、済南で国民革命軍と日本軍が衝突し、多数の住民を巻き込んだ「済南事件」が起きている。「長崎日日新聞」は五月四日付で同事件を報道。次いで同六日付で「済南在留の邦人男女二百八十名虐殺さる」の見出しで、本県出身者六人が殺害された、と伝えた。同事件をきっかけに戦力増強の目的から、同八日午後には大村の陸軍第46連隊に出動命令が下っている。
一方、満州(現中国東北部)に駐留していた関東軍は、奉天(現在の瀋陽)軍閥で親日派とされた張作霖に軍事顧問団を送り、取り込みを図っていた。しかし、張が排日運動の高まりや欧米の支援を取り付けようと日本との距離を置き始めると、関係は悪化。二八(昭和三)年六月四日、関東軍は張が乗る列車を爆破し、殺害した。
張作霖爆殺事件に対しては国内外から厳しい批判があった。当初は関東軍関係者の処分を行うとしていた田中首相が陸軍などの抵抗で処分断念を昭和天皇に上奏。天皇の〓責(しっせき)を受けた田中首相は二九(昭和四)年七月、内閣総辞職。後を継いだ立憲民政党の濱口雄幸首相は金解禁や緊縮財政、ロンドン海軍軍縮条約を結び軍備縮小を図るなど、経済の立て直しに取り組んだが失敗。三〇(昭和五)年十一月十四日、東京駅で狙撃され重傷を負った。
そのころ中国では、張作霖の死後、跡を継いだ息子の張学良が〓介石の国民政府と提携して排日、抗日の態度を鮮明にした。このため関東軍は三一(昭和六)年九月十八日、柳条湖で南満州鉄道爆破事件を起こして軍事行動を開始。「満州事変」と呼ばれるこの事件を契機に、日本は中国と泥沼の十五年戦争に突入することになる。
【編注】〓介石の〓は草カンムリに将の旧字体
【編注】〓責(しっせき)の〓は叱の異体字
南京事件を報じた1927年3月26日付夕刊
中国からの避難者で混雑する出島岸壁=1927年4月7日付夕刊
◆メモ
狙撃犯は本県出身?
濱口首相狙撃事件を伝える紙面=1930年11月14日付夕刊
風貌(ふうぼう)から「ライオン宰相」の異名を取った濱口雄幸首相は、1930(昭和5)年11月14日、岡山県で行われた陸軍大演習に出席するため、東京駅を訪れた際、ホームで至近距離から腹部を狙撃され重傷を負った。
応急処置を受けるため駅長室に運ばれた濱口は、鈴木書記官長(現在の官房長官に相当する)にこうつぶやいたという。「男子の本懐だ」。
この銃撃で濱口は骨盤を砕かれたが、東京帝大病院で手術を受け、一命は取り留めた。静養に努めていた翌31(昭和6)年3月、野党・政友会の鳩山一郎(後に首相)らの執拗(しつよう)な国会出席要求に対し、傷の癒えない身で衆議院に登院。無理がたたったのか、体調を崩し国会閉会後の4月13日、濱口内閣は総辞職。その約4カ月後の8月26日に亡くなった。
狙撃犯は愛国社(右翼団体)の佐郷屋留雄(さごや・とめお=当時21歳)で、その場で逮捕された。事件を報じた「長崎日日新聞」紙面は「今朝東京駅頭で濱口首相狙撃さる〜彈(弾)丸は腹中にとヾまる〜内出血甚だしく非常に重体」とあり、犯人の佐郷屋が東彼杵郡彼杵村(現東彼杵町)出身と伝えている。
佐郷屋は死刑判決を受けたが、恩赦で無期に減刑され、後に仮出所。愛国社社長の岩田愛之助の娘婿になり、右翼活動を続けた。
2009年3月14日長崎新聞掲載
<20完> 未来へ(2009年12月29日)
<19> 「平成」の幕開け(2009年12月12日)
<18> 昭和から平成へ(2009年11月14日)
<17> 出島から茂里町へ(2009年10月10日)
<16> 一県一紙へ(2009年9月12日)
<15> 4紙分離と朝鮮戦争(2009年8月8日)
<14> 戦後混乱期と新聞(2009年7月11日)
<13> 終戦前後の新聞(2009年6月13日)
<12> 戦時下の新聞(2009年5月9日)
<11> 世界大恐慌とテロ(2009年4月11日)
<10> 昭和初頭の長崎日日新聞<下>(2009年3月14日)
<9> 昭和初頭の長崎日日新聞<上>(2009年2月14日)
<8> 大正時代と新聞<下>(2009年1月10日)
<7> 大正時代と新聞<上>(2008年12月13日)
<6> 「明治」から「大正」へ(2008年11月8日)
<5> 「長崎新報」不敬事件(2008年10月11日)
<4> 日清・日露戦争と新聞(2008年9月13日)
<3> 自由民権運動と新聞(2008年8月9日)
<2> 西南戦争と新聞(2008年7月12日)
<1> 揺籃期(2008年6月14日)
〒852-8601 長崎市茂里町3-1
TEL:(095)844-2111(大代表)
このホームページに掲載の記事、写真等の著作権は長崎新聞社または各情報提供者にあります。したがって一切の無断転載、二次利用をお断りいたします。
※サイトのプライバシーポリシー
※長崎新聞社へのお問い合わせについて
「龍〜なが」アクセスランキング
県内ニュース <14日2時54分 更新>
1
潜伏キリシタンの墓碑群を発見 長崎・多以良(12月24日)
2
ディスカウント大手のドン・キホーテ 浜町アーケードに進出へ(2月11日)
3
建築家・安藤忠雄氏がまちづくり語る 長崎市都市景観賞表彰式(2月12日)
4
相棒の盲導犬アトムを探して 先月夜から行方不明(2月1日)
5
諫早が2年ぶり男女V 県高校新人駅伝(2月12日)
全国・海外ニュース <14日2時54分 更新>
1
最新ニュース速報
2
NY株、反発 ギリシャ情勢好感
3
米財政赤字103兆円 12年度、過去2位の高水準
4
為替相場 14日(日本時間 2時)
5
習副主席、脅威論打ち消し 米中関係「世界で最重要」
長崎の天気
きょうは何の日
論説
コラム 水や空
電子号外
紙面投稿案内
長崎リンク集
有料携帯サイト
ニュース、スポーツ、県内メール速報など。月額315円(税込)
どうなる諫干
排水門開門調査をめぐる動きを掘り下げ
石木ダム問題
建設か、白紙撤回か。議論は過熱する
ピースサイト
被爆地・長崎から原爆・平和を考えます
ながさき動画館
イベントやお祭りなど満載
スポーツながさき
高校スポーツを中心に県勢の活躍を伝えます
V・ファーレン
Jリーグ入りを目指すV・ファーレン長崎
その他
ハウステンボス、ひと往来など
お買い物
長崎の名店・名品を紹介
■休日在宅医
(県医師会)
■休日歯科診療
(県歯科医師会)
<長崎新聞から>
会社案内
購読申し込み
試読申し込み
採用情報
文化ホール
長崎書道会
カルチャーセンター
折込センター
販売センター
あんしんネット
主催事業
長崎新聞社の本
長崎新聞文化章
新聞ができるまで
社内見学アルバム
音読で脳力アップ
ケータイ版ご案内
広告のご案内
サイトマップ
新聞著作権協議会
共同通信社
日本新聞協会