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上村重光さん(90)
被爆当時15歳 入市被爆

私の被爆ノート

爆心地は「地獄絵図」

2020年3月26日 掲載
上村重光さん(90) 被爆当時15歳 入市被爆

 当時は母、姉弟と4人で暮らしていた。父が戦死し、「家計の助けになれば」と集団就職して有家の実家を離れ、爆心地から約10キロ離れた香焼村の川南香焼島造船所で見習工として働いていた。
 午前中は工場で工作機械を製作し、午後は竹やりの訓練をした。爆弾を載せた小舟で敵陣に突っ込む訓練もあった。工場では米国やメキシコの捕虜も働いていた。ある時、敵機から英語のビラがまかれ、それを読んだ捕虜が突然暴れだしたが、軍人に刀で切られた。
 1945年8月9日。工場で普段通り作業をしていた。11時すぎ、工場が大きく横揺れした。だが、旋盤作業の音がうるさくて気にも留めなかった。爆弾が落ちたと聞いたのは翌朝。2日後、工場は解散し「遺体回収」を命じられた。臨時船で長崎に向かい、旭町の桟橋に着くと一面焼け野原だった。
 爆心地付近は、まさに地獄絵図。男女の区別が付かない真っ黒焦げの遺体、幼子を抱えた遺体…。うつぶせの遺体を動かしたら二つの眼球が垂れ下がった。こちらをにらんでいるようだった。怖くて目を背けた。突然、具合が悪くなりその場で吐いた。軍手には焼けただれた皮膚がこびり付いていた。ゴシゴシ洗っても取れなかった。
 数日すると、遺体回収にも慣れた。浦上川では水を求めて多くの人が息絶えていた。仲間と一緒にひたすらリヤカーに遺体を積み上げた。10人を一山にし、荼毘(だび)に付した。「安らかにお眠りください」と冥福を祈った。
 それは15歳の少年には耐え難い仕事だった。家族が待つ有家に帰ることを決めた。線路沿いに諫早まで一日かけて歩き、その後はどこかの消防団に家まで連れて行ってもらった。雲仙岳が車窓から見えた時には涙があふれた。郷里の風景は何も変わっていなかった。
 後日、「あの日、長崎の空は真っ赤だった」と姉から聞いた。もし、香焼でなく長崎市内にいたら生きていなかったと思うと、背筋が凍った。その後は漁師や農家など仕事を転々とし、結婚して4人の子どもに恵まれた。でも、被爆当時の話は避けていた。思い出したくなかったからだ。
 妻は亡くしたが、90過ぎまで健康で生き永らえている。幸せな人生を送ることができた。あの時、犠牲者をきちんと弔ったからではないかと思っている。

<私の願い>

 最近、テレビで北朝鮮のミサイル発射の速報が入る。米中ロの軍拡競争は終わりは見えない。中東やアフリカでは民族紛争。殺し合いが続いている。「戦争は駄目だ」と地道に訴え続ける。それが生き残った者たちの使命だ。

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