山下登さん(91)
被爆当時17歳 救護被爆

私の被爆ノート

御真影背負い逃げる

2020年4月9日 掲載
山下登さん(91) 被爆当時17歳 救護被爆
 
 当時、現在の大村市立大村小近くにあった実践女学校で指導員をしていた。旧制県立大村中を卒業したばかりの17歳で、今では考えられないが、生徒は年上ばかり。私は「坊や先生」と呼ばれていた。
 8月9日。校舎2階で授業をしていた時、突然近くに爆弾が落ちたような「ドカーン」という大きな音が響いた。外を見ると、長崎市の方でモクモクと雲が立ち上り、こっちに向かって流れているように見えた。「毒ガスじゃないか」。すぐに校長に報告に行った。
 当時は学校に天皇陛下の御真影がまつられており、私は箱に入った御真影を背負い大村神社下の防空壕(ごう)に逃げた。中には数人の軍人がいた。何を背負っているのか分かったのだろう。全員が私の方に敬礼をしてきた。それから30分ほど防空壕の中で過ごし、警報が解除されてから自宅がある松原へ帰った。
 父の国八は警察官で、松原の駐在所に勤めていた。帰ってきた私に父は「午後5時にけがをした人が長崎から運ばれてくる」と言い、松原駅まで迎えに行くよう指示した。駅には多くの地区住民が集まっていたが、列車はなかなか来なかった。結局、午後8時ごろに貨物列車が到着し、80人くらいの人が降ろされた。
 駅から松原国民学校まで約500メートルの距離を、30~40代くらいのおばさんの手を引いて歩いた。列車を降りた人はよろよろとした足取りで、リヤカーで運ばれる人もいた。おばさんの腕はやけどでただれ、とてもかわいそうだった。途中「水が欲しい」と言うので、自宅の駐在所を通り掛かった時、母に水をお願いした。すると、後から来ていた人たちも次々と母に水を求めていた。
 学校では運ばれた人が講堂のあちこちに寝かされ、泣きじゃくる声も聞こえた。私はトイレに連れて行ったり声を掛けて回ったりするぐらいで精いっぱいだった。
 後日、学校で遺体がトラックに載せられている場面に遭遇した。父は連日学校に通い、「今日は3人死んだ」「今日は4人」と言っていたことを覚えている。
 この前年、私は大村大空襲も経験し同級生を亡くした。当時は奉仕作業ばかりで勉強した記憶がほぼ無い。戦後に大学に通えたが、終戦直後は松原にも米軍が来るなど戦々恐々とした時期が続き、とにかく怖かった。

<私の願い>
 戦時中は「日本が勝った」という報道ばかりで、本当にそうなのかと不思議で仕方なかった。私はラグビーが好きで、昨年のワールドカップ日本大会を見ながら平和を実感した。もう二度とあのような戦争は繰り返してはいけない。

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