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私の被爆ノート

大量の火の雨降り注ぐ

2015年4月30日 掲載
流合カツヨ(88) 流合カツヨさん(88)
爆心地から3・0キロの長崎市本博多町(当時)で被爆
=東彼川棚町百津郷=

当時19歳。大村町(現万才町)の明治生命長崎支店庶務課に勤務。北高古賀村(現長崎市)の自宅から喜々津駅まで歩いて汽車に乗り、約1時間40分かけ通勤していた。

あの日は本博多郵便局にいた。会社宛ての書類を受け取り、外に出た瞬間、大量の火の雨が路面に降り注いだ。1歩後ずさりしたため、屋根に守られ、けがはなかった。すぐに稲佐山に火の手が上がっているのが見えた。支店へ急ぐ途中、焼けただれた2、3人の男の人とすれ違った。皆、無表情だった。

支店は、書類が散乱するなどめちゃくちゃ。割れた窓ガラスの破片が頭に刺さった若い女性事務員が「早う病院に」と泣き叫んでいた。正午すぎ、県庁から火の手が上がり、支店長から避難指示。同僚と2人で国道を歩いて帰った。3、4時間で自宅に着いた。家の前の国道は、諫早方面へ歩く負傷者の列が数日間続いた。

妹が女子挺身(ていしん)隊の勤労奉仕で、茂里町の三菱兵器製作所にいた。同所で働いていたけが人は諫早にいると聞き翌日、母とリヤカーを引き旧制諫早中へ。遺体と負傷者が入り交じる中を捜したが、見つからなかった。夕方ごろ帰宅すると、高熱と吐き気に襲われ寝込んでしまった。症状は1週間ほど。原爆の影響だったのだろう。

父と母は妹を捜し回り、12日、大村の寺に避難していたのを連れて帰ってきた。けがもなく元気だったのを喜んだ。

支店から14日に出社するよう連絡があり、体調が優れないまま長崎市内へ。道ノ尾駅を過ぎると、焼き尽くされた街が広がっていた。焼け落ちた支店に着くと、浦上方面の人以外はほぼ集まっていた。地下室の重要書類を運び出し、浜町の永尾靴店(当時)に仮店舗を構え、営業を再開した。

15日はラジオがある近所の家に集まり、玉音放送を聞いた。戦争が終わったことが分かり、ほっとした。

<私の願い>

悲惨な戦争が二度とないよう平和であり続けてほしい。若い人には、戦後の日本が歩んできた平和国家としての道を今後も歩んでもらいたい。これまで、子どもや孫にもほとんど話したことがなかったが、遺体や負傷者の形相を思い出し、核兵器の恐ろしさを伝えたいとの思いが強くなった。

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