藤田 傅
藤田 傅(85)
藤田傅さん(85)
爆心地から0・9キロの長崎市坂本町(当時)で被爆
=五島市福江町=

私の被爆ノート

助け求める声 胸痛む

2015年4月23日 掲載
藤田 傅
藤田 傅(85) 藤田傅さん(85)
爆心地から0・9キロの長崎市坂本町(当時)で被爆
=五島市福江町=

古里の五島を離れ、三菱兵器製作所大橋工場で徴用工として働いていた。15歳だった。工場では1時間に1回、場内のプレス機など各種機材に油を差す担当だった。

あの日は夜勤だったので、朝から山王神社近くにあった下宿先の「山王寮」にいた。原爆が投下された瞬間は、はっきりとは覚えていない。気付いたら爆風で飛ばされていた。寮の建物が倒壊し、下敷きになった人もたくさんいた。背中や首の後ろにガラスの破片がたくさん刺さったけれど、大きなけががなかったのは幸いだった。

仕事どころではなかったので、翌日「五島に帰ろう」と思い大波止へ向かった。寮の近くに爆弾が落とされたと思っていたが、すぐに大変なことが起きていることに気付いた。辺り一面は焼け野原。川は死体で埋め尽くされ、どこからともなく「助けてくれ」という声も聞こえた。

途中、恐らく死んでいるであろう横たわった母親に、1歳か2歳くらいの裸の子どもが、水道から水を手ですくって飲ませていた。助けようにも自分のことで精いっぱいだった。胸が痛かった。

船着き場は、船を待つ人でごった返していた。1週間ほどたった夜、五島に向かう軍の貨物船に乗り込んだ。知り合いと一緒になったが、彼は腕などにウジがわいていて、五島に戻ってすぐに亡くなったらしい。

船はゆっくりと進んだ。船体は木や葉っぱで覆われていたが、島に見せ掛けていたのだろう。上空を飛行機が旋回するたびに、エンジンを止めていた。半日以上かかってようやく五島に着いた。

実家にたどり着くと、父の第一声は「お前は誰だ」。1週間そのままの格好だったので、着ていたシャツはぼろぼろで、顔も黒ずんでいたからだった。その後、髪の毛が抜け落ち、2カ月ほど寝込んだ。今思うと、あれは原爆の影響だったんだろう。

<私の願い>

もう戦争や国同士の争いをなくして、平和に暮らしたい。これからの未来は原爆が兵器として使用されることはないと思いたいけれど、被爆地からは永遠に原爆の悲惨さを全世界に発信していくべきだ。また日本政府は平和な世界の実現に向け、実効性のある政策を打ち出してほしい。

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