釣川貞義・上
釣川貞義・上(87)
釣川貞義さん(87)
爆心地から0・7キロの長崎市浜口町で被爆
=島原市新田町=

私の被爆ノート

暗黒の壕内から脱出

2015年5月14日 掲載
釣川貞義・上
釣川貞義・上(87) 釣川貞義さん(87)
爆心地から0・7キロの長崎市浜口町で被爆
=島原市新田町=

当時は浜口町の三菱長崎工業青年学校3年生。その日は授業がないので作業着になって持ち場に着き、いよいよ作業というときになって、上級生から防空壕(ごう)掘りに行くよう言われた。絶対服従の時代で、嫌だとも言えず出発した。今にして思えば、この上級生の指示が運命を分ける一言だった。

防空壕掘りの現場があった坂本国際墓地まで行った。既に下級生や同級生が集まり、2年生が午前11時まで掘削作業をし、その後3年生が交代することにした。近所の落合さんの奥さんが食べ物や冷たい麦茶をくれるのでごちそうになったり、軍歌を合唱したりしているうちに11時になった。

副級長だったので「2年生と交代だぞ」と同級生に号令を掛け、率先垂範するために壕に入った。作業する場所まで歩いて1分ほど。壕の中では寮で同室の椎葉君がつるはしを振るっていた。交代し、つるはしを地面にたたき付けたまさにその瞬間だった。

「バーン」というすさまじい地鳴りを伴ったごう音と、渦巻くような風が壕内を襲い、あっという間に岩土にたたき付けられた。

どれぐらいの時間が過ぎたか分からないが、気が付くと、壕内は真っ暗だった。古里(現在の雲仙市国見町多比良)の家族や先生の顔が浮かんでは消え、もうろうとした意識の中で暗黒の地面に横たわっていた。

「ダイナマイトが爆発したんじゃないか」「落盤事故じゃないか」といった声が飛び交う中、横にいた椎葉君に声を掛け、揺さぶると返事をした。「生きとられたっですか。自分は何とか動けるようです」と話した椎葉君は、私を引きずり、脱出しようとした。

かすかに外から光が差し込んでいた。はいずりながら入り口にたどり着き、外がどうなっているかと震える手を取り合いながら見た。ほんの数分前まで落合さんの奥さんからもらったせんべいなどを食べ、お茶を飲み、歌っていた同級生らが苦悶(くもん)の声を上げていた。木の枝が全身に突き刺さった者や髪が溶けてしまった者など、幽霊のようだった。

臭いに気付くと、落合さんの家が燃え始めていた。よろめきながら、ようやく外に出た。

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