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渡邊春三さん(89)
被爆当時16歳 旧国鉄職員 爆心地から2.3キロの長崎駅構内で被爆

私の被爆ノート

やけど 3カ月寝たきり

2018年11月01日 掲載
渡邊春三さん(89) 被爆当時16歳 旧国鉄職員 爆心地から2.3キロの長崎駅構内で被爆
 
 長崎駅構内の長崎車電区に勤めていた。あの日、休憩で屋内に入っていると「落下傘が落ちてくる」と友達が言うので上半身裸のまま外に出た。落下傘が見えた。途端に体は10メートルほど吹き飛ばされ、気付くと1人だった。
 放送局(現NHK長崎放送局)付近の防空壕(ごう)へ行ったが、火事になるというので、新興善国民学校の救護所へ向かった。被爆の瞬間は遮る物もなく、腕、顔、上半身の左側と、両足のつま先をやけどしていた。救護所で何か塗ってもらったが、人が多くて座る所もなく、1時間といなかった。
 長与町斉藤郷の家に帰ろうにも浦上方面は火事と聞き、長与とは反対方向にある大浦の病院へ。そこで油とガーゼをもらい、傷に油を塗りながら職場の長崎駅へと戻った。途中どこかのおばさんが、はだしの私に「こいば履かんね」とげたをくれた。
 長与へ帰りたい一心だった。駅で自分の上着を取って線路沿いを気力で歩いた。浦上駅で保線区が使うモーターカーに乗せてもらい大橋付近に着くと川にも電車にも死体があり、馬は腹が膨れて死んでいた。救援列車で長与駅に着いたのは午後8時ごろ。駅前にあった国鉄の診療所で夜を明かした。
 翌10日、知らせを受けた母と近所の人が迎えに来てくれた。だがもう立ち上がれず、歩くこともできなかった。リヤカーに乗せてもらったところまでは覚えている。家路の途中、長与国民学校の救護所で手に負えないと言われたそうだ。
 斉藤郷の家は7月に米軍の焼夷(しょうい)弾が落ち、隣家と2軒が焼失していた。そのとき私は大阪にいて難を逃れた。家族は無事で、母と妹2人、義姉とめい、おいの6人は近くに6畳一間を借りて住んでいた。途中引っ越したが、その中で私は3カ月間寝たきりだった。
 石灰を水に溶かした上澄み液を杯に7杯、油を3杯、それを混ぜたものがやけどに効くと聞き、1日4、5回、母や義姉が筆で塗ってくれた。傷口が乾かないよう、妹たちが取ってきてくれたツワの葉を皮膚に張った。痛みは覚えていないが、塗ってもらうと気持ちがよかった。
 献身的な看病のおかげで被爆から半年後、職場に復帰。皮膚が突っ張って腕が上がらず、手首もうまく曲がらなかった。だが楽しみはスポーツだった。随分たってから皮膚移植など計3回の手術を受け、自由に動くようになった。

<私の願い>

 原爆に遭う前にいた大阪で空襲の最中、専修学校の卒業写真を撮った。戦争はもう嫌だ。もし核兵器が使われれば、今度は世界がなくなる。今を生きる子どもたちに同じような経験はしてほしくない。平和な世界と核廃絶を願っている。

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