長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています
河辺喜久子さん(98)
被爆当時20歳、入市被爆

私の被爆ノート

体から血が噴き出す音

2023年12月21日 掲載
河辺喜久子さん(98) 被爆当時20歳、入市被爆

 1925年、長崎市の伊良林で生まれた。父に連れられ、東京や神戸を転々とした。1人で長崎に戻ったのは、18歳のころ。西彼福田村手熊郷(現・同市手熊町)に住んでいた伯母の家に身を寄せ、畑仕事や、いとこの子守をして過ごしていた。
 「あの日」-。三菱長崎兵器製作所大橋工場へ働きに行くよう、伯母から言われていた。気が進まなくて、家で畑仕事をしていた。生後4カ月のいとこを背負って作業していた時、突然、空がピカッと光った。まぶしさで目が見えなくなった。その直後、猛烈な爆風が押し寄せ、吹き飛ばされた。家のガラスは割れ、畳はひっくり返っていた。空は異様な雲に覆われていた。何が起きたのか分からないまま、その夜、近くの防空壕(ごう)に詰めかけた人たちと一緒に過ごした。
 2日後の8月11日、同い年で長崎医科大の学生だったいとこを捜すため、小江原や油木町を経由して松山町に歩いて入った。皮膚が垂れ下がり、目が飛び出て、お化けのようになった人たちが道端にあふれ返っていた。恐ろしい爆弾が落とされたんだ。あまりにも悲惨で直視できなかった。いとこを捜していたが、ほとんどの人の顔が焼けただれていて、誰が誰だか分からなかった。
 捜している途中、同級生に会った。「(いとこは)生きてたよ。病院で駆け回って看病していた」。そう聞いて、ほっとした。大学から薬を取りに行っていた薬局にいたので、運良く助かったらしい。会いに行こうと思ったが、道もまともに歩くことができなかった上、そこにとどまることが耐えられず、その日のうちに手熊へ戻った。
 帰り道、大橋付近で焼け死んだ人が積み上げられ、並べられているのを見た。腕はちぎれ、鼻が溶けて伸びていた。体が破裂して血が噴き出す音が聞こえた。親子で抱き合って死んでいた人も見た。今でも頭から離れず、思い出すだけで涙が頬をつたう。
 手熊に戻ってからの生活は苦しかったが、被害は少なく、何とか暮らすことができた。「あの人も死んだ」「この人も死んだ」と毎日のように聞いた。家族が誰ひとり原爆に遭わなくてよかった。しかし、自分は何もできなかったと、やるせない気持ちになる。原爆投下から78年たっても、空を見上げると考える。あの光はもう見たくない-。

◎私の願い

 今も世界では戦争によって人々が死んでいる。戦争の状況を伝えるニュースを見ると胸が苦しくなる。あんなにひどい光景はもう見たくない。被爆者や戦争を経験した人の話を語り継いでもらい二度と戦争を起こさないでほしい。

ページ上部へ