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竹下芙美さん(81)
入市被爆

私の被爆ノート

道中は「生き地獄」

2023年7月6日 掲載
竹下芙美さん(81) 入市被爆

 当時の自宅は長崎市西坂町にあり、両親、祖父母、おじ、おば、きょうだいと暮らしていた。空襲警報が鳴ると、自宅地下の防空壕(ごう)に姉と入った。ランプやおもちゃがあり、幼い私にとっては姉とままごとができる楽しい時間だった。知人の厚意で原爆投下の1カ月ほど前、爆心地から約7キロ離れた時津村(当時)に祖母、おじ、姉と疎開。納屋を改造した簡素な家に身を寄せた。母は生まれて間もない弟を連れて、自宅と疎開先を行き来していた。
 あの日は朝から暑かった。母はドーンという音を聞いて、慌てて私たちに布団をかぶせたという。私が覚えているのは、納屋の窓から見た光景。ピカッと青白い光で、稲妻が束になって一度に光ったようだった。後で祖母に、あの時光った爆弾で多くの人が亡くなったと聞き、しばらくは稲妻が怖かった。
 近くの小学校に原爆で傷ついた多くのけが人が運ばれ、母は翌日から救護の手伝いに行ったが、傷口から這(は)い出すうじ虫を箸で取り除くことしかできなかったらしい。
 父は勤務先の川南工業香焼島造船所から原子雲を見た。翌日、爆心地を通って時津村に向かった。道中は「まるで生き地獄」。大けがを負った人たちから「助けてくれ」と求められたが、謝りながら進んだ。リヤカーに食糧を積んで引いていたが、地面の熱でタイヤが燃え、途中で使えなくなったという。私たちの疎開先にたどり着いたのは11日の朝だった。けが人を助けられなかったことを父はずっと悔やんでいて、当時の話をあまりしたがらなかった。
 時津村で数日過ごしたが、自宅が気になり、14日に家族で戻った。爆心地周辺は、あちこちで遺体を焼く煙が立ち上り、においが鼻を突いた。道端には腹部がパンパンに膨れた馬の死骸がゴロゴロと転がっていた。子連れの移動なので、何度も休みながら帰り着いたそうだ。
 父が木材や竹を集めて建てたバラック家で生活を立て直し、数年後には目覚町に引っ越した。私は残留放射線への知識もなく、がれきだらけの浦上天主堂跡などでよく遊んだ。成長して、頻繁に鼻血が出たり、盲腸手術で傷の治りが異様に遅かったりした。その後も、ぜんそくや卵巣腫瘍などの病を重ねた。原爆は体に時限爆弾を抱えるような暮らしを被爆者に強いる。絶対に作ってはいけないものだ。

◎私の願い

 ロシアがウクライナに軍事侵攻し、恐れていた核兵器使用が現実味を帯びたのを感じる。ロシアが核兵器を脅しに使うのも怖いが、これに乗じて日本で核共有を容認する発言が出てきたのも怖い。若い人は、政治に関心を持ち投票してほしい。

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