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川口滋さん(87)
被爆当時10歳 長与国民学校5年 爆心地から8キロの長与村岡郷(当時)で被爆

私の被爆ノート

お経唱え、死んだ父

2022年2月17日 掲載
川口滋さん(87) 被爆当時10歳 長与国民学校5年 爆心地から8キロの長与村岡郷(当時)で被爆

 あの日は、長与村岡郷(当時)の船津橋付近の長与川で友だちと泳いだ後だった。近くの自宅にいた母から井戸の縄が切れて落ちたバケツを回収するよう頼まれ、水面をのぞきこんでいる時、目がくらむような光を感じた。爆風なのか、山中の葉っぱが次々に裏返って山全体が白っぽくなり、土ぼこりとごみが宙を舞い、空が暗くなった。何が起きたのか分からず恐怖を感じ、母と防空壕(ごう)に逃げ込んだ。
 あの夜は一睡もせず、赤々と燃える長崎の空を眺めた。自宅は南側の壁が吹き飛び、足の踏み場もなかった。
 10人きょうだいの五男で、大工の父は村の警防団の副団長。原爆投下直後、軍の命令を受け、爆心地近くで長崎署長の家族の捜索に当たった。夜遅くに帰宅した父から、長崎は焼け野原が広がり、まるで地獄だと聞いた。四男は三菱長崎兵器製作所大橋工場で働いていた。母は父から、四男は生きて帰って来ないだろうから覚悟するようにと告げられ、涙した。翌日夕、頭に包帯代わりのゲートルを巻いた四男が帰ってきた。救護活動から帰宅した父が、兄の無事を喜ぶ顔が忘れられない。
 その10日くらい後、父が突然倒れ、ひどい血便が続いた。診てくれた元軍医は放射線の影響だとし、薬や治療法もなかった。家には遠い親せきが同居していた。後で気付いたことだが、原爆投下直後、親戚が末っ子の5歳の弟を連れて長崎市内の自宅を見に行くために入市被爆したようだ。2人とも父と同じころに倒れ、9月上旬に亡くなった。寝たきりの父は同月下旬、家族のために寝床でお経を唱えながら息絶えた。46歳だった。相次いで3人を失い、真っ暗な気持ちで、とても不安だった。
 国民学校は救護所となり、大勢のけが人が歩いてたどり着き、担架で運び込まれる人もいた。同級生らと水くみなどを手伝った。体育館などに敷かれたむしろ、ござの上に、ひどいやけどを負い、髪の毛が抜け、男女の区別もつかない人たちが寝せられ、小さなうめき声も聞こえた。
 けが人の皮膚から出るべたべたした体液で汚れた床などをぞうきんで拭き取り、体にわいたうじ虫を竹のピンセットで取り除いた。埋葬できずに海岸で火葬された人の骨を拾う作業も手伝った。水を飲もうとして力尽きたのか長与川を流れる死体もいくつも見た。そんな光景が脳裏に焼きついている。

◎私の願い

 戦争は殺し合い。絶対に繰り返してはならない。長崎原爆被爆者の会の会長を務めており二度と原爆が使われない世界になるよう努力をする義務と責任がある。日本はもっと世界平和に貢献する活動をすべきだと思う。

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