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松尾健二さん(88)
被爆当時13歳 旧制県立長崎中1年 爆心地から3.3キロの伊良林町2丁目(現伊良林2丁目)で被爆

私の被爆ノート

「水ば」 叔父何度も

2021年4月22日 掲載
松尾健二さん(88) 被爆当時13歳 旧制県立長崎中1年 爆心地から3.3キロの伊良林町2丁目(現伊良林2丁目)で被爆

 旧制県立長崎中の1年生だった。父は伊良林町2丁目(当時)の若宮稲荷神社で宮司をしており、社務所で両親と兄、姉と5人で暮らしていた。
 あの日は夏休みだったので家でのんびり過ごしていた。突然、「ブー」と大きな音がしたので、米軍機が爆弾を落としたと思い、とっさに伏せた。カメラのフラッシュを浴びたような強い光に、全身が包まれた。目を開けると社務所のガラスは割れ、障子やふすまは全て倒れていた。
 あまりの光の強さに普通の爆弾ではないと感じた。数日前、新聞に「広島へ新型爆弾が落とされた」との記事があったから、「きっとそれに違いない」と思った。神社の境内には5、6人ほど入れる大きさの地下壕(ごう)を掘っていた。次が来るかもしれないと、家族全員で身を潜めた。
 夕方、神社に2人の青年が訪ねてきた。20歳くらいだろうか。青年は「ナガイクマイチロウ」という人がけがをして近くの伊良林国民学校にいるので、引き取ってほしいと言う。その人は母の妹の夫。私の叔父に当たる人で、当時50代くらい。三菱長崎造船所に勤めており、後に知った話だが、爆心地から近い長崎医科大付属病院(現・長崎大学病院)に検診に行って被爆したらしい。
 私と兄、神社へ避難していたいとこの3人で国民学校へ向かった。学校の講堂が爆弾でけがをした人の収容所になっており、あちこちにやけどを負った人がいた。青年の案内で叔父さんの元に着いた。顔の判別ができないほどやけどはひどかったが、声で叔父さんだと分かった。神社から持ってきた戸板で社務所まで運び、次の間に寝かせた。
 叔父さんは喉が渇いて仕方なかったようで「姉さん、水ば」と、母を呼ぶ声を何度も上げていた。飛行機の爆音がまだ聞こえていたから、母と私で地下壕と次の間を何度も往復しながら、やかんで水を運び、飲ませた。
 10回ほどそれを繰り返しただろうか。ふと、叔父さんの声が聞こえなくなったので様子を見に行くと、もう息をしなくなっていた。やけどをした人に水を飲ませてはいけないとは知らなかった。叔父さんは私たちきょうだいに優しかったので、悲しかった。中島川沿いに遺体を運び、解体された民家の廃材を積み上げ、その上に乗せて焼いた。翌日にはもう、骨だけになっていた。

◎私の願い

 とにかく戦争のない平和な国になってほしい。ひとたび戦争が起これば原爆が落とされ、人々の生活を破壊し、命が奪われてしまう。被爆者の中には、今も原爆症に苦しむ人もいる。戦争だけは、どんなことがあっても起こしてはならない。

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