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私の被爆ノート

「生きて」と願い搬送

2015年8月27日 掲載
松尾 澄子(91) 松尾澄子さん(91)
爆心地から2・5キロの長崎市西山町2丁目で被爆
=長崎市江戸町=

長崎市内で米問屋を営む両親のもと、4人きょうだいの末っ子として生まれた。戦前の記憶は、今と何ら違わぬ学生時代のことばかり。県立長崎高等女学校に通い、たわいもない会話が弾んだ友人との時間。それが戦争で奪われていった。日本が太平洋戦争に突入した1941年、17歳だった。

授業でなぎなたを学び、毎月1日と15日には梅干しと白米の日の丸弁当を持って、必勝祈願のため諏訪神社へお参りに行った。「右向け右の時代」。疑うことなく軍国教育を受け入れた。

戦争へ赴く兵隊へ慰問袋を縫い、中に入れる手紙は「戦地で頑張っている皆さま」と書き出し、毎回同じような文言を並べた。「亡くなる人へ何と書けばいいのか」。筆は進まなかった。

空襲が激化する中、45年8月9日を迎えた。当時21歳。同年春から母校の県立長崎高等女学校に事務職員として勤務し、仕事をしていた。

午前11時2分。白みがかった黄色の閃光(せんこう)と、砂ぼこりのようなざらりとした何かが体の横を擦り抜けた。異変を感じ机の下に身をかがめた途端、棚が倒れた。校舎は鉄筋コンクリート4階建て。幸い、同僚の数人がガラス片でけがをした程度で、私も無傷だった。

しばらくして、爆心地周辺に学徒動員されていた生徒が助けを求めて校庭に集まってきた。腕の皮膚は焼けただれ、髪も焼け、服はぼろぼろ。誰が誰だか分からなかった。「何とか生きて」。そう願い、伊良林国民学校まで担架に乗せて懸命に運んだ。

数日後、敵襲のうわさが流れ、暮らしていた愛宕から矢の平方面の知人宅へ避難した。原爆投下直後の爆心地の惨状を目にすることはなかった。恵まれていたと思う。

15日、ラジオの玉音放送で終戦を知った。何を目的に生きればいいか、見当がつかなかった。

<私の願い>

特別な願いはない。ただ、戦争のない世界は、誰もが望んでいるはず。いとも簡単に人の命が奪われる異常な状態が戦争で、ゲームのような世界だ。しかし、ゲームのように人は生き返ったりしない。なぜそんな戦争が世界各地で起きているのか、一人一人が今こそ考えなければいけない。

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