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犬塚愛子さん(86)
被爆当時12歳 香焼国民学校 高等科1年 入市被爆

私の被爆ノート

「水を」周囲から声

2019年8月8日 掲載
犬塚愛子さん(86) 被爆当時12歳 香焼国民学校 高等科1年 入市被爆
 
 当時は西彼香焼村(現長崎市香焼町)で両親と暮らしていた。
 実家は消防団の詰め所になっていて、父がいつも消防車を磨いていた。学校に行っても勉強はほとんどせず、山に入って松やにを採集したり、畑でサツマイモを作ったりしていた。
 あの日、私は家の庭で遊んでいた。川南造船所に勤務していた父は仕事を休んで、屋根に上って家の修理をしていた。
 突然、雷が落ちたようにピカッと光った。父は屋根から下りてきて私を抱え、家の下に掘っていた防空壕(ごう)に押し込んだ。その後のことは壕内にいたので分からないが、実家に消防団員が次々と集まり、出動していったと聞いた。
 父も「長崎方面が大変なことになった」と言って出動した。家を出る前、城山町に住む上司の様子を見に行ってほしいと母に頼んだらしい。母は私を連れて行くかどうか迷ったようだが、いつ戻って来られるか分からない中で、娘を一人残しては行けなかったのだろう。母は10日、私を連れて川南造船所から船に乗って大波止まで行き、そこから城山町に向かった。
 浦上川沿いを歩いている時だった。母が突然「右も左も見るな」と叫んだ。その後、母は私の手をつかんで走った。私は目を閉じて下を向いていたが、周囲から「水をちょうだい」「助けて」という声が聞こえてきて、ただただ怖かった。息をするのも嫌になるほどの独特の臭いが鼻を突いた。手拭いを何重にも折り畳んで口に当てたが効果はなかった。あの臭いは今も鮮明に覚えている。
 父の上司と会うことができて、10日の夜には無事に香焼に戻った。家や家族に被害はなく、食べ物に困ることはなかった。
 私は1973年2月に被爆者健康手帳を取得した。当時は原爆に遭った人は結婚できないとうわさされ、差別もあったため、結婚後しばらくたってから取得した。私はこれまで、両親も含めて誰とも原爆の話をしないまま生きてきた。だから父や母があの日、どんな思いで過ごしていたのかさえも知らない。
 原爆との関係は分からないが、母も私も体が弱かった。体がきつくて、崩れるように倒れ込みたくなってしまうことがよくあった。今でもひと仕事終えると、すぐにしんどくなってしまう。
 

◎私の願い

 戦争は結局、殺し合いだ。自分の子どもが戦争で誰かを殺したり、殺されたりすることを誰も望んでいない。戦争だけは二度と起こしてはいけない。今の世の中はどこかおかしい。子どもたちが平和で安心して暮らせるようにしてほしい。

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