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私の被爆ノート

足つかみ、水求める人々

1998年3月19日 掲載
今本十三夫(66) 爆心地から2.0キロで被爆
=東京都調布市菊野台=

当時十四歳だった私は、淵国民学校の動員学徒として、長崎市丸尾町の三菱電機長崎製作所の工場で働いていた。母や姉たちは疎開先へ、兄たちは召集で戦場へ。父と私は水の浦町の伯父宅に寄宿していた。

当時は毎日のように空襲に遭い、工場の裏手の防空ごうに避難する日々。

「あの日」も朝から空襲警報が鳴り、解除されたので作業に戻っていた。突然、工場が黄色いせん光に包まれ、次に「ドッカーン」というすさまじい音。隣に爆弾が落ちたような衝撃に、とっさに作業台の下に潜った。

しばらくして、台の下から出てみると、周囲はガラスが無数に降り注ぎ、工場の鉄骨が大きく曲がっていた。防空ごうに避難すると、大人たちは「広島に落ちたのと同じ新型爆弾だ」と口々に話していた。

夕方ごろ、伯父宅に向かうがだれもおらず、近所の防空こうで下宿人と合流。翌朝、母の疎開先の三重村(現・長崎市)ヘ一緒に出発した。歩いていくと、稲佐橋辺りから様相が違う。浦上川に浮かぶ無数の死体。グニャッと折れ曲がった製鋼所の鉄骨。今までに見たこともない惨状に、二人とも黙ったまま歩き続けた。

電車通りでは、道端に、うずくまった人たちが列をなしていた。背中をやけどした人は、患部がまるでリュックサックのようにはれていた。中心部から逃げてくる人は既になく、道端に残された人たちは皆、ひん死の状態だったようだ。

近くを通ると、次々に足をつかみ「水を下さい」と訴えてくる。どうにもできず道の真ん中を歩いた。周囲には、人間が焼けたのと腐乱したすさまじいにおいが立ち込め、タオルを口に押し当てて歩いた。一日がかりで疎開先にたどり着き、家族と無事を喜び合った。 戦後、長崎原爆資料館を訪れた。この目で見た母子の黒焦げ死体の写真を見ているうちに、当時のにおいがよみがえってきて、我慢できず外に出た。あの惨状の記憶は、五十数年を経た今も、鮮明に残っている。
<私の願い>
米国が豚や牛など動物を使って核実験をする映像を見て、彼らは私たちをそれと同列に見なしていたのだ、と怒りが込み上げた。どんな理由であろうと人の上に爆弾を落としていいはずがなく、戦争は絶対許せない。テレビで湾岸戦争などの爆撃場面を見た人は、あの下にわれわれと同じ人間かいるという事実を忘れないでほしい。

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