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山下貞治さん(82)
被爆当時9歳 畝刈国民学校4年 爆心地から9.5キロの西彼三重村(当時)で原爆に遭う

私の被爆ノート

元気だった母 一変

2018年08月09日 掲載
山下貞治さん(82) 被爆当時9歳 畝刈国民学校4年 爆心地から9.5キロの西彼三重村(当時)で原爆に遭う
 

 73年前のことを思い出すと今も胸が苦しくなる。1発の原爆は、幼かった心に影を落とした。
 あの日は、夏休み中の登校日だった。当時、畝刈国民学校4年生。国語の授業中で先生が「孫悟空」の本を読んで聞かせていた時。目がくらむような鋭い閃光(せんこう)が教室の中を走った。慌てて校庭に飛び出し、伏せた時、ドーンというごう音。「何か大変なことがあったんだな」。三重村(当時)の自宅へ道を急いだ。
 次第に、じりじりとした夏の日差しはなくなり、長崎市の方向に目をやると、真っ赤に燃えていた。夕方ごろには、自宅前の県道を西彼外海町黒崎(当時)の方面に向かってフラフラと歩く人たちがいた。自宅にいた母は黒崎の出身。衣類が焼け、足ははだしで、手足にけがをしたり顔にやけどを負ったりして帰る人の中に、知った顔もあったようだ。心優しい母は、放っておけなかったのだろう。水を欲しがる人には井戸水を飲ませた。具合が悪い人ややけどを負った人は約1週間、納屋に寝かせた。髪の毛がゴッソリ抜ける人もいた。それでも母はおかゆを食べさせたり、体を拭いてあげたりして介抱した。
 被爆した人を一生懸命に支えた母に次第に異変が出始めた。高熱が続き、うわ言を繰り返し、食欲がなくなった。元気だった母の姿が一変し恐ろしかったのか、妹や弟は寄り付かなくなっていた。そして1946年2月、母は帰らぬ人となった。当時の診断は急性肺炎だったが、今となっては原爆が関係しているのではないかと思えてならない。
 当時、私の父と長姉は中国で暮らしており、不在。長男の私は、病床の母を何とか支えたいと思っていたが、母の手を握ることや薬を取りに行くことぐらいしかできなかった。今も悔いが残っている。
 死後、伯母の夫の船に棺おけを乗せ、荒波の中、母の出身地の黒崎に向かった。生前の母は、食料不足を補うため、農家の手伝いに行ってカボチャなどの野菜を持ち帰って来てくれた。自分が食べるよりも子どもたち優先で分け与えてくれた。元気だった母の姿を思い起こしながら、私は棺おけの横にぴったりとくっついていた。
 私は被爆者健康手帳の交付を求め「被爆体験者」の集団訴訟に参加。いまだに被爆者としての援護が受けられないのは納得できない。

<私の願い>

 原爆の惨禍を繰り返すまいと、若い人が頑張ってくれている。だが原爆の記憶を語り継ぎ、共有することで、心を傷つけているのではないかとも思う。つらい経験を知るのは私たちの世代でとどめ、若い人には幸せな生活を送ってもらいたい。

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