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相川 二千穗(78)
被爆当時5歳 爆心地から1キロの長崎市竹の久保町2丁目(当時)で被爆 

私の被爆ノート

粉じんといやな臭い

2018年05月17日 掲載
相川 二千穗(78) 被爆当時5歳 爆心地から1キロの長崎市竹の久保町2丁目(当時)で被爆 

 母親と弟と3人で竹の久保の家で暮らしていた。父親は海軍の兵隊で戦地に行っていて不在だった。あの日の朝早くは、父親の実家がある疎開先の式見から家に帰ってきたところだった。
 帰宅するとすぐに、朝から近所の友達の家で遊んでいた。昼前に自宅へ帰ろうと玄関で靴を履き、外に出るため扉を開けた。すると「ブーン」と飛行機の不気味な音が聞こえた。友達の母親から「飛行機が来てるから外に出ないで」と呼び止められ、玄関で座って待つことにした。腰を下ろして間もない時、ピカッと光が目に入ったと思うと、ドンッと地響きのような音が聞こえ、何かが爆発した。尋常ではない量の粉じんが舞い、土の臭いが鼻についた。この時のいやな臭いはなぜか、一生忘れることができない。それから意識はなくなっていた。
 気が付くと、場所は分からないが防空壕(ごう)の中にいた。遊んでいた友達や、家族と一緒にいた記憶はない。とにかく中は、人で埋め尽くされていた。防空壕の前の広場にも人があふれていて、泣き叫ぶ悲鳴を聞いた気がする。その日は防空壕の中で一夜を過ごした。
 翌日の夜、父方の祖父と手をつないで、汽車に乗った。乗車場所は覚えていない。汽車の窓から、けがをしている人が乗ったり降りたりするのを見ると、みんな逃げることに必死だったと思う。重い空気が漂い、祖父と手をつないだまま無言だった。線路の近くで、道の真ん中で、荷物を運ぶ馬や黒焦げになった人が倒れているのを見た。道ノ尾駅で降りて、山の中を歩き式見に向かった。
 いつどこで母親と弟と再会できたか分からないが、2人とも無事で無傷だった。自分は、左瀬と頭頂部付近に擦り傷ができていた。傷の原因は不明で、病院で手当てした記憶はない。当時は丸坊主だったので、頭の傷跡が目立ち恥ずかしかった。
 父親が戦地から帰ってきた時期は覚えていない。終戦後、父親が土木建築業をするために勝山に引っ越した。勝山小2、3年生ごろの夏、原爆傷害調査委員会(ABCC)が、学校にジープで迎えに来た。児童3、4人で病院に連れて行かれ、血液検査などをした後、アメリカ製の鉛筆1本と消しゴム一つをもらった。手に入りそうなものではなかったので、とてもうれしかった。

<私の願い>

 今まで足を踏み入れることが怖かったが、先日初めて原爆資料館を訪れた。いろんな人に原爆の悲惨さを知ってほしいと思う。そして、核兵器が確実に無くなる世の中になってほしい。そのためには本腰を入れて世界各国が取り組むべきだ。

 
 

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