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松浦孝さん(80)
被爆当時5歳 爆心地から4.1キロの長崎市中新町で被爆

私の被爆ノート

赤黒い空 鮮明に

2020年9月24日 掲載
松浦孝さん(80) 被爆当時5歳 爆心地から4.1キロの長崎市中新町で被爆

 防空壕(ごう)から見える赤黒い空。大人になってから何度も夢に現れた光景だ。当時は5歳とまだ幼かったが、その記憶は鮮明に残っている。
 物心がついたころには戦争が始まっていた。父は従軍し、母と妹と3人で、長崎市街を見下ろす中新町の長屋で暮らした。疎開のために遠くまで歩いたり、爆音におびえたりと怖い記憶ばかりだ。
 晴天だったあの日は、近所のお兄ちゃんの家で遊んでいた。飛行機の爆音が聞こえたが、空襲警報は鳴らないので「友軍機かな」と思っていた。ところが突然、ピカッと閃光(せんこう)が襲った。「晴れてるのに雷か」と疑問に思ったのもつかの間、爆風が吹き荒れた。一緒に遊んでいたお兄ちゃんの太ももにはガラスが刺さった。
 その後、気が付けば自宅から離れた防空壕の中にいた。自宅近くにも防空壕はあったが、入り口が爆心地の方角を向いていたため、恐らく風下へ逃げる周囲の人たちと一緒に走ったのだろう。ただ、その間の記憶はない。自宅には母と妹がいたはずだった。異様な臭いが立ち込め、けがをしてうなる人や、激しく呼吸する人もいた。そうした見知らぬ人に囲まれ、「これからどうすればいいのか」と不安に駆られた。
 「孝はどこに行ったとやろか」。なじみのある声が聞こえた。入り口に出てみると、妹をおぶった母が立っていた。母の姿を認識した瞬間、「母ちゃん」と叫んですがりついた。緊張から解き放たれたのだろう、安心して涙が出てきた。最寄りの防空壕ではないのに、再会できたのは今思えばドラマのようだった。外を眺めると、空は炎と雲で赤黒く染まっていた。
 数時間後、自宅に帰るとたんすなどの家具が倒れ、物が散乱していた。「危なかけん、土足で上がって」と母に言われ、室内に入ると、縁側から見える景色に目を疑った。県庁など市街地のあちこちから火の手と煙が立ち上っていた。普段なら浦上方面も眺められたが、その時は全体的に煙っていて何も見えなかった。原爆が浦上に落ちたという事実は後で知った。
 定年退職後、「記憶をなくさないうちに」と、町並みや防空壕の様子など当時の光景を絵に描いた。あの赤黒い空を思い出しながらよみがえった感情は、絶望感よりも母に会えた喜びだった。あの時の母は女神のようだった。

<私の願い>

 戦争は自分の意思とは関係なく、殺人をしないといけない。子孫の代で戦争が起きれば人類の破滅につながるだろう。知恵のある人類が、なぜ自分たちの首を絞めるようなことをするのか。口論は結構だが、武力に頼ってはいけない。

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