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井手一良さん(90)
被爆当時15歳 県立長崎工業高 爆心地から2.7キロの長崎市船津町(当時)で被爆

私の被爆ノート

焼け野原で友捜す

2020年7月30日 掲載
井手一良さん(90) 被爆当時15歳 県立長崎工業高 爆心地から2.7キロの長崎市船津町(当時)で被爆

 当時、私は長崎工業学校(現在の県立長崎工業高)定時制に通っていた。昼間は報国隊として、三菱兵器住吉トンネル工場6号トンネルでボルトなどを製造していた。所属先は「峰組」と呼ばれた。
 8月9日。その日は健康診断があったため工場には行かず、鳴滝町(当時)の家を出て船津町(同)の三菱病院船津分院に向かい、峰組の数人と現地合流した。到着したのは午前10時45分ごろ。待合室に入り、しばらくして「ピカッ」と外に閃光(せんこう)が走った。何秒もしないうちにごう音が鳴り、強風で窓ガラスが粉々に吹き飛んだ。自分も転倒し、後頭部を触るとガラス破片が2カ所に刺さっていた。峰組の人たちは全員無事だったが、何が起こったのかは分からない。傷口に赤チンキを塗ってもらい、仲間と住吉トンネル工場に戻ることにした。
 途中、浦上方面から歩いてきたと思われる多くのけが人とすれ違った。誰もが大やけどを負い、もはや性別も分からない。怖かった。助けを求められたが、どうしてやることもできなかった。
 午後1時すぎだろうか、トンネル工場にたどり着いた。峰組には、定時制で同じクラスの友人がいた。出席番号も並んでいて、仲が良かった。その友人が見当たらない。峰組の組長に尋ねると、「大橋の本工場にウエス(ぼろ布)を取りに行き、戻ってこない」という。私は大橋の三菱本工場に向かった。街は、地獄のような焼け野原が広がっていた。本工場に着くと、建物は崩れ、火がくすぶっていた。黒焦げになった人や馬の無残な姿が、はっきりとまぶたに焼き付いている。
 結局、いくら捜しても友人は見つからなかった。あきらめの気持ちと同時に、「早く家族に会いたい」との思いに駆られた。現場を離れ本原町から西山4丁目を歩き、鳴滝町で待つ家族の元に帰った。当時、同居していた母と妹は外で私の帰りを待っていて、ともに抱き合って喜んだ。
 友人のその後を知ったのは、約30年後。長崎工高の被爆死者慰霊式で友人の姉と出会った。その人によると、友人は本工場周辺で被爆後、大村の病院に搬送され息を引き取ったという。戦争で死んだ人の中には、最期が分からない人が大勢いる。生きて再会できていれば、それが一番良いことは言うまでもないが、友人の最期を知ることができたのがせめてもの救いだ。

<私の願い>

 とにかく平和が一番。今の世の中でも毎日のように事件や事故が起こっている。人間は一人では生きられない。隣の人に対して思いやりの気持ちを持って接することが、争いをなくしていくための第一歩になると思う。

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