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大渡マサ子さん(94)
被爆当時21歳 爆心地から3.3キロの西彼長与村高田郷で被爆

私の被爆ノート

兄の姿が今も頭に

2019年03月07日 掲載
大渡マサ子さん(94) 被爆当時21歳 爆心地から3.3キロの西彼長与村高田郷で被爆
 あの日、4番目の兄は、私の安否を心配しながら職場近くまで救援列車で来て、列車の窓越しに手を振ってくれた。最後に見たその姿が、私の中に消えない残像となって残っている。
 当時21歳。5人の兄がいる末っ子として育った。西彼長与村(当時)にあった実家は、1945年7月の空襲で全焼。以降、家族の多くは近くにあった母方の実家で暮らしていた。道ノ尾駅で働いていた私は、駅近くに住んでいた3番目の兄家族と一緒に暮らしていた。
 駅での仕事は切符売り。自由席の列車は、買い出しに出掛ける人たちでいつも満席だった。当時、売れる切符の枚数は決められており、優先証明書を持った人から乗ることができた。
 8月9日も普段通りに出勤し、いつものように仕事を終えるものだと思っていた。浦上駅近くまで買い出しに行っていた同僚が持ち帰った荷物を整理していた時のこと。ピカッと光り、ドーンというすごい音。「道ノ尾駅の構内に爆弾が落ちた」。そう思うほどの衝撃だった。
 浦上方面に目をやると、一面だいだい色の炎に包まれ、何も見えない。何が何だか理解できないまま、無我夢中で近くの防空壕(ごう)に逃げた。飛んできたガラス片で頭を切っていたことも気付かなかった。しばらくして一緒に暮らす兄の自宅へ向かい、無事を確認した後、再び仕事に戻った。
 爆風でグチャグチャになった駅の事務室の整理をしていると、皮膚が垂れ下がっている人や、だるそうにした人たちが集まってきた。列車でどこかに避難できるとうわさが流れていたようで、力を振り絞って来たのだと思う。
 浦上周辺で働いていて被爆した4番目の兄は「マサ子が死んだのでは」と心配していたそうだ。諫早方面行きの救援列車で長与村の家に帰る途中、道ノ尾駅に停車中の車中から私の姿を必死に捜してくれていた。目と目が合い、手を振り合って互いに無事を確認。こうして喜んだ1カ月後の9月8日、この兄は亡くなった。まさかあの日が最後になるなんて思ってもいなかった。
 当時、駅員の恋人がいた。背が高くて社交的な人で45年12月に結婚。その後、食糧難に苦しんだりもしたが、3人の子どもに恵まれ幸せに暮らした。それでもあの日の兄との別れは、いつも頭にある。戦後73年が過ぎた今も、心の傷は癒えない。
 
<私の願い>
 
 若いころ、もっと勉強して通訳士か学校の先生になりたかったが、その夢もかなえられなかった。食事にも困った。つらい体験をするのは私たちだけでいい。原爆反対、戦争反対。若い人たちにも原爆の恐ろしさを分かってほしい。

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