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三女徳子さん(84)
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長女牟田満子さん(89)
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次女壽子さん(86)
長崎新聞・中国新聞・朝日新聞の3社が全国の被爆者にアンケートを行いました。3564人から回答があり、その言葉には被爆者の強い思いが込められていました。
8月9日、母は戻ってこなかった。1歳の妹も一緒だった。米国が長崎に投下した原爆で2人が「爆死」して80年がたった。
長崎新聞・中国新聞・朝日新聞の3社が全国の被爆者にアンケートを行いました。3564人から回答があり、その言葉には被爆者の強い思いが込められていました。
長女の牟田満子(89)、次女壽子(86)、三女徳子(84)の三姉妹が残された。当時は9歳、6歳、4歳。一度、離れ離れになった三姉妹は今、かつて父母と生活を共にしていた長崎市西山地区に暮らしている。
ある時は、生まれてきたことを恨みさえした。人生を一変させた原爆、そして戦争を憎んだ。
それでも、80年を生き抜いてきた。
右下が姉妹の母キクエさん。膝の上の赤ん坊は長女満子さん。中央の眼鏡姿の男性が父喜作さん
父喜作(当時40)は脊椎カリエスを患い、寝たきりだった。
その日の朝、母キクエ(同35)は喜作の薬をもらうため、四女洋子を連れて浦上地区の長崎医科大付属医院に向かった。
被爆した長崎医科大学の焼け跡。当日午前11時から3カ所の教室で講義をしていた。医大関係者の死亡は900人にのぼった(米国戦略爆撃調査団撮影、提供)© 朝日新聞社
三姉妹は爆心地から2.5キロの自宅近くで爆風と閃光に襲われ、なんとか防空壕に逃れた。喜作も無事だった。しかし母と妹が帰ってこない。
喜作の日記が、今も満子の手元にある。
父喜作さんがつづった日記を見つめる満子さん
〈八月九日 木 暴爆破裂と共に その瞬間 長崎市の地上は大変事となる〉
〈十日 妻よ 洋よ お前達は何処にいるのか せめて死体なりとも捜しているのだが〉
〈十一日 人々が妻達の捜査に行かれた 空しく帰へってこられた いよいよ駄目だ〉
〈十二日 戦災死と諦める外ない 死体さへ判らぬ〉
捜索に向かった親族は、医科大近くに女性と子どもの遺体があったと聞き、一握りの灰を持ち帰った。
〈十八日 暴爆に一片の骨もなし 焼跡の灰一握り 汝等納め祭れり〉
原爆投下から2週間後、喜作は2人の「爆死」を届け出た。
母キクエさん形見のかんざし
終戦の翌年、病が悪化した喜作が亡くなり、三姉妹は離散する。
徳子は近くに住む伯母夫妻の養子となった。
壽子は中学生になると、佐世保で食堂を営む親戚に預けられた。
満子は長女として家に残った。つえをついて農業を営む祖父を助けるため、中学校をやめた。最後の登校は「中学2年の5月17日」。その日を忘れたことはない。
肥やしとなる人糞(じんぷん)を集め、畑を耕す日々。市場に野菜を売りに行く時には、通学路を避けた。同じ年頃の子どもに会いたくなかった。
「私は何のために生まれてきたの」
畑で一人、空を見上げて泣いた。
孤独を慰めたのは、ラジオから流れる「ひばりちゃん」の歌声。戦後間もなくデビューした美空ひばりは一つ年下だった。
「私は街の子」「リンゴ追分」――。収穫した野菜を束ねながら、一緒に口ずさんだ。「歌っている時だけは何も考えなくていい。歌手になってみたい」
淡い夢が芽生えた。
しかし満子が16歳になる頃、結婚話が持ち上がった。祖父が男手を欲していたのは分かっていたが、相手は見知らぬ6歳上。猛反発して、家を出ようと荷物をまとめた。
だが最後の最後に、妹の壽子や、親戚に預けられている徳子の顔が頭によぎった。「2人を置いていけない」。満子は結婚を受け入れた。
長女満子さんの結婚写真。満子着用の着物は母キクエさんの形見
壽子と徳子は中学校を卒業したが、希望した高校進学は認めてもらえなかった。壽子は佐世保市中心部の食堂で10年近く働き、長崎に戻ると27歳で結婚。夫とクリーニング店を営み、4人の子どもを育てた。徳子は17歳で結婚し、4人の子育てに追われた。
長女満子さん(右上)と夫。右下は三女徳子さん。左下は親戚
母が自分たちをどう育ててくれたのか、記憶はほとんどない。それぞれが手探りで家庭を築く中、壽子と徳子は長崎の満子を心のよりどころにしてきた。
妹2人にとって満子は「母親代わり」だった。
満子がずっと封じ込めてきた歌手の夢。70代になり、その思いを歌声にのせる機会が少し意外な形で巡ってきた。
知り合いに誘われ、被爆者でつくる合唱団「ひまわり」に参加することになった。
平和祈念式典の会場で歌う被爆者の合唱団「ひまわり」
2010年からは毎年8月9日の平和祈念式典で、被爆の惨状や核兵器廃絶の願いを表現した曲「もう二度と」を歌った。
15年、初の海外公演で米ニューヨークへ。母と妹を奪い、なお核兵器を造り続ける国。複雑な思いがあったが、それでも現地の高校で歌い、自らの体験を証言した。すると1人の女子生徒が涙を流してハグをしてくれた。「1人でもこんな人が増えたら、戦争はなくなるのに」。ちょっとだけ思いが通じたように感じた。
2015年10月26日、ドイツで歌声を披露する長女満子さん(前列左端)ら被爆者の合唱団「ひまわり」
合唱団は今年、3年ぶりの式典出演が決まり、満子と壽子も加わって歌う。
平和祈念式典出演に向けて練習する満子さん(左)と壽子さん
「原爆がなければ、こんな人生ではなかった」
あの日以来、三姉妹は幾度もそう思った。それでも必死に生きてきた。
80代になった3人は現在、ご近所同士で暮らす。満子の家には壽子と徳子が自然と集う。食事を持ち寄ったり、世間話をしたり。穏やかな日々をかみしめる。
一方で世界には、核兵器を手放さない国がある。相次ぐ戦争で、子どもが死に、家族が引き裂かれている。
ある日の午後、次世代に託したい思いを3人で語り合った。
「原爆は絶対にあってはいけない。やめてほしい。それが平和をつくっていく」。壽子がそう語ると、徳子は続けた。「世界を平和にしてやってください」
妹たちの言葉に満子もうなずいて言った。「人間として生まれたのに、どうして人間同士で殺し合う…。一つしかない命を、戦争は踏みにじる。核兵器なんて必要ないし、造るのもおかしい。それよりも他のことにお金を使ってほしい」
満子たち被爆者の合唱団が平和祈念式典で歌う楽曲「もう二度と」には、こんなフレーズがある。
〈もう二度と作らないで わたしたち被爆者を この広い世界の 人々の中に〉