1999年平和への誓い

杉村吉夫さん(69) 当時15歳、旧制諫早中学4年。大村海軍航空廠の諫早工場に学徒動員。救護被爆

平和への誓い

1999年平和への誓い

1999年平和への誓い

杉村吉夫さん(69) 当時15歳、旧制諫早中学4年。大村海軍航空廠の諫早工場に学徒動員。救護被爆

『犠牲者の死、無駄にしない』

 「原爆」、その字を見たり、その言葉を聞くたびに、私は強い憤りと悲しみを抑えることができません。
 昭和二十年八月九日、今から五十四年前の今日、一発の原子爆弾が投下され、五百メートル上空で炸裂しました。当時の私は、旧制諫早中学四年生で、学徒動員として軍需工場に配属になり、大村海軍航空廠の諫早工場におりました。原子爆弾投下で数多くの負傷者が次々と運ばれていることから、救護活動を行うための班が編成され、私も従事することになりました。中学校の講堂に行って見ますと、全身焼けただれ肉が垂れ下がったままの人や髪がなく丸坊主になり目を見開いたままの人が、原爆を恨むかのように死んでいました。
 私たちはその死体を大八車に積み込むため、その手足に触れると皮膚がべったりと手について、それはとうてい言葉では表現できるものではなく、今も昨日のことのように思い出します。現在もなお、世界各地で地域紛争が起こり、また臨界前核実験が繰り返し実施され、朝鮮半島での予断を許さない情勢、さらには国籍不明の船舶によるわが国海域への侵入など平和を脅かす数々の事件が発生しています。このような事件がなくなり、世界平和が早く来ますように念じてやみません。
 私は、今ここで原爆で亡くなられた多くの犠牲者の御霊を前に心を新たにして誓います。私たちは、あなた方の死を無にしません。争いのない真の世界平和が訪れるまで声を大にして世界の人々へ呼びかけます。命のある限り非核三原則の厳守を…そして、長崎を最後の被爆地となるように努力することを…。
 一瞬のうちに命を絶たれた人々よ、傷つき倒れ死の恐怖におののきながら亡くなっていった同胞よ、さぞ、苦しかったでしょう。どうか安らかにお眠りください。

平成11年8月9日

被爆者代表 杉村吉夫