2002年平和への誓い

東海ムツ子さん(68) 当時11歳、西浦上国民学校5年。爆心地から約3キロの川平町の自宅近くで被爆

平和への誓い

2002年平和への誓い

2002年平和への誓い

東海ムツ子さん(68) 当時11歳、西浦上国民学校5年。爆心地から約3キロの川平町の自宅近くで被爆

『恒久平和実現を訴え』

 一九四五(昭和二十)年八月九日、当時私は十一歳で川平町に住み、西浦上国民学校の五年生でありました。同校は川平、滑石、西浦上の三校舎で分散授業をしており、当日は午後からの授業となり、樹齢三百年余りの「千茶(ちちゃ)の木」という大きな木の下で国取り遊びをしておりましたところ、突然ピカーッとせん光が走りました。のちに原子爆弾のことを「ピカ・ドン」という呼称で呼ばれるようになりましたが、私の記憶にはドーンという音はなくピカーッという光だけが残っております。
 急いで家の裏に掘られた横穴式の防空ごうの中に逃げ込み、どのくらいの時間が過ぎたのかわかりませんが、外に出てみると辺り一面建物は倒れ、物は吹き飛び、空は暗く、黒い油雨が降り、あちらこちらには火の手があがっておりました。私の母校西浦上国民学校の校舎は爆風で押しつぶされ、四名の教師と、百三十六名の生徒たちが犠牲となりました。
当時西浦上国民学校の教師だった岩本喜十先生の遺作の中に
屍の重なる中を灼け爛れまだ命ある友を運びぬ
校庭に爆死の友を吾は焼き髪逆立てて友は焼かれき
このような詩があり、今も私の脳裏に焼き付いて忘れることができません。
 私の母のたった一人の弟は、長崎の寺町から道の尾の叔母の家へ、疎開荷物をリヤカーに積み移動中の出来事でした。時間的に見て大橋付近で被災しただろうと推測されたので、親せき一同が茂里町から大橋一帯にかけ、焼け焦げた遺体と異臭の漂う中、浦上川沿いを中心にうつぶせになった屍(しかばね)を表返し、両手を合わせ祈りながら一生懸命に捜しましたが、何一つ手がかりとなるものは見つかりませんでした。
 戦争とはいえ、アメリカによる、たった一発の原子爆弾のために幾多の尊い命が奪い去られ、万物すべてが灰と化し、五十七年目を迎えた今も原爆症で、心身共に苦しめられている人がたくさんいることは現実の姿なのです。
 今なお、世界には、核の時代へと移行し、核保有、核実験、テロによる惨事、戦争による犠牲者と不幸は絶えません。この不幸の芽を摘みとるためにも、私たち被爆者は、わが国における非核三原則の法制化を早急に進めながら、世界の「核兵器廃絶」を提唱し、私たちが体験したような悲劇が二度と起こらないよう、平和な明るい世界が一日も早く訪れることを日夜念じ、また祈り「核のない世界平和実現」のために努力していくことをここに誓います。

平成14年8月9日

被爆者代表 東海ムツ子