2007年平和への誓い

正林克記さん(68) 当時6歳、爆心地から1・5キロの家野町でセミ取り遊び中に被爆

平和への誓い

2007年平和への誓い

2007年平和への誓い

正林克記さん(68) 当時6歳、爆心地から1・5キロの家野町でセミ取り遊び中に被爆

『勇気と信念持ち平和追究』

 あの、一発の原子爆弾が、この空で炸裂(さくれつ)した日の、一九四五(昭和二十)年八月九日午前十一時二分。この頃(ころ)、六歳の私は、爆心地より一・三キロほどの家野町の自宅から、そう遠くない小高い丘で、友達と蝉(せみ)とりに夢中でした。そこには、古びた山小屋があり、雑木林が茂っていて、緑の木立で蝉が合唱していました。
 私が、一緒に付いてきた三歳の妹に虫籠(かご)を手渡し、樹の幹の蝉に、虫アミの竿(さお)を伸ばし始めた時でした。急に、飛行機の爆音がしました。驚き、怖くて、うろたえ、母の注意がよぎりました。友達は慌てて駆け下りました。
 私は、立ちすくむ妹を強引にひきずって、山小屋に逃げ込みました。その瞬間、まっ白い光と爆発、爆風、熱風を浴び、すさまじい破壊が始まりました。
 私は木片・瓦礫(がれき)と化した木立や小屋の片隅から、吹き飛ばされて気絶していた妹をかき出しました。
 自宅方面は、空も町も赤く染まって見え、その辺りから、衣服が燃えて狂ったようにもがく人、半身焼けこげた人、肉がえぐれて血まみれになった人などが、次々、丘の峠に逃れてきては、町外れへと消え去りました。
 私は、妹を背負ってさまよいました。力尽きて立ちすくんでいました。だれか、助けてくれそうでしたが、私の体をみて、もうダメだろうと、置き去りにしました。
 私は、左下腹部に竹が突き刺さって肉がえぐれ、血を流しながら妹を背負っていました。妹は、衣服がこげて血を流し、震えながら、「お母さん、お母さん…」と、か細く母を呼び続けます。はじめて、「お父さん、助けて」と、戦死して帰らぬ父が欲しくて、泣き叫びました。
 その頃、爆心地・周辺・いたるところで、七万数千人が亡くなり、私を含め、七万数千人が傷つきました。
 あの、一発の原子爆弾は、空前の破壊力で放射線を浴びせ、一瞬にして、無差別大量殺戮(さつりく)をやってのける地球の人類の悪魔でした。
 時を追うごとに増え続ける未曽有の悲惨さ。今も、後障害に苦しむ多くの被爆者。あまりにも、不条理であります。
 あの日の、長崎市民は、みな、だれでも、人類の子であります。
 あの日の、広島と長崎は、人類の広島・長崎でもあります。
 その両市への原爆投下は、人類への投下であって、向うべき人類の真理に背き続けて、それぞれの立場や都合で、それを正当化し、肯定し、擬制するものではありません。
 人類の真理。それは、「平和にいだかれた幸福と繁栄」。これこそ、人類が命を懸けて子孫に贈り、未来を託す真理であります。
 今、私達は、とりまく経済・社会の環境の中で、それぞれの立場や都合で、「よろしく・おかげさまで・ありがとう」を、言ったり言われたりしていることが多いと思います。しかし、人の得意とすることで滅びゆくことなく事を成すには、どのような立場の人でも、「平和にいだかれた幸福と繁栄」に向けて進路を取り、その真理を尋ねて、「よろしく・おかげさまで・ありがとう」を言ったり言われたりする-そうした、勇気と信念をもって、誰もが心豊かな幸福(しあわせ)を共有できるバランスのとれた環境をみんなの力で創(つく)っていくことが必要なときでは。そう思えてなりません。
 私は、これからも、核兵器のない世界の恒久平和を願って、足元から微力を尽くすことを申し上げ「平和への誓い」とさせていただきます。

平成19年8月9日

被爆者代表 正林克記