2009年平和への誓い

奥村アヤ子さん(72) 当時8歳、城山国民学校3年。爆心地から約500メートルの自宅近くで被爆

平和への誓い

2009年平和への誓い

2009年平和への誓い

奥村アヤ子さん(72) 当時8歳、城山国民学校3年。爆心地から約500メートルの自宅近くで被爆

『核兵器は地球上にいらない』

 1945年8月9日11時2分、原爆が投下され一瞬の出来事に逃げることもできず、炭のように体を焼かれ、一口の水も飲むこともできずに亡くなった多くの人々よ、どんなにか無念だったでしょうね。
 64年前と同じ8月9日が、セミの声と共にまた巡ってきました。当時8歳だった私は、爆心地から500メートル離れた城山町に新しい家を建ててもらい、家族9人でにぎやかに、楽しく、そして幸せに暮らしていました。その朝までは家族一緒だったのに「考えられない11時2分」がやってくるのです。その朝まで元気だった家族、一緒に遊んでいた友達が、私の目の前から消えてしまいました。
 その後、毎日泣いていました。46年間、原爆の話ができませんでした。原爆のことは、見たくない、聞きたくない、私の頭の中から消えてほしい…、私は、原爆から逃げていたのです。けれども、私の家族が生きていたことを書き残したくて、ある本の中に、旧姓徳永アヤ子の名前で私の体験を書きました。これがきっかけとなり、私は今、修学旅行の皆さんに被爆体験を伝えています。
 全身やけどを負った4歳の弟と私だけが生き残り、知らない田舎に引き取られました。母がいたら「おんぶしてよ、抱っこしてよ」と弟は甘えたかったでしょうに、甘えることもできず、治療のときは我慢できずに泣いていました。私も腕にやけどをしていましたが自分の治療のことは覚えていません。たぶん弟と一緒に泣いていたんでしょう。
 弟は自分の体の痛みを我慢するだけ我慢し、地獄のような苦しみだけを背負って昭和20年10月23日に亡くなりました。わずか4年の短い弟の人生でした。
 私は戸外で遊んでいましたので、全身に放射線を浴びていました。髪の毛は抜け、歯茎からは出血し、体全身具合が悪いのに、病院に通うことができませんでした。両親や兄弟がいない生活は地獄そのものでした。このような苦しみ、悲しみはほかの人たちに味わわせたくありません。何十年たっても消えることのない苦しみと悲しみを生み出す核兵器は地球上にはいらないのです。
 アメリカは核兵器を使用したことのある唯一の核保有国として行動する道義的責任があり、核兵器のない世界の実現を目指すことを、アメリカ大統領として初めて明確にしたオバマ大統領のプラハでの演説は、64年目にしてやっと被爆者の声が世界に届いた形となり、心強く感じています。
 私は世界中の人々と一緒に、この地球上から核兵器をなくして安心して暮らせるように、一人でも多くの人に平和と命の尊さを伝え続けていくことを誓います。

平成21年8月9日

被爆者代表 奥村アヤ子