友人、そして相談員として松谷さん(左)の自宅を時折訪れ、暮らしを支える横山さん=長崎市内

ピースサイト関連企画

あの丘の約束 横山照子とヒバクシャたち・4 『相談』 続く被害 自立の道を共に

2022/08/04 掲載

友人、そして相談員として松谷さん(左)の自宅を時折訪れ、暮らしを支える横山さん=長崎市内

 1972年、横山照子(81)は、長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)の相談員となった。まず最初に被爆体験の聞き取りをした相手が、被災協が運営する「被爆者の店」の事務員だった松谷英子(80)。被爆により右半身まひの障害を負っていた。
 相談者であり友人の関係は今も続く。6月中旬、照子は長崎市内にある松谷の自宅を訪ねた。「元気そうね。困ったことない?」「うん大丈夫よ」-。互いに体調を気遣い、明るい笑い声を響かせた。
 松谷は3歳の時、爆心地から2・45キロの稲佐町1丁目(現旭町)にある自宅の縁側で被爆。爆風で飛ばされた瓦が左頭頂部に直撃し、頭蓋骨が陥没する重傷を負った。数年は歩けない状態が続き、小学校には1年遅れて入学した。
 高校を卒業した松谷は61年、被爆者の店に就職。今も感謝の念を抱く。「あの職場だから片一方の手が使えない私でも、ひがむことなく37年も勤められた。普通なら『そのくらいできないの』と言われるだろうけど、皆さん被爆者だから、いつも助けて支えてくれたんです」
 原爆被害や障害への理解が乏しい時代。「被爆者の店」は原爆で傷ついた人たちを雇い、生活と社会参加を支えた。国による援護充実は期待できない。“痛み”を理解する当事者同士で「自助」の仕組みをつくるしかない。そんな現実の裏返しでもあった。
 照子は小さな事務所で松谷と机を並べ、被爆体験や生活の実態を少しずつ聞き取っていった。「あなた手帳は持ってるけど『認定』は持ってるの?」。77年ごろ、照子は松谷に尋ねた。「『認定』ってなん?」。そう不思議がる松谷に、照子は「原爆症」認定制度について教えた。
 被爆者健康手帳を持ち、かつ、放射線によるけがや病気について治療が必要な「原爆症」と認められると、国が一定の手当を支給する仕組み。認定されれば経済的な余裕が生まれ、より充実した治療を受けられる可能性があった。
 医師の診断書を踏まえ、77年と87年に認定申請をしたが、国はいずれも却下。「これを原爆症と言わず何と言うのか」。照子は弁護士の夫にも相談し、松谷に却下処分の取り消し訴訟を提案。88年、長崎地裁でいわゆる「松谷訴訟」が始まった。国と最高裁まで争い、2000年7月に認定を勝ち取る。初申請から24年目のことだった。
 勝訴から22年。松谷は頭に残る傷を示し、当時を振り返る。「原爆でこんな体になったんだからすぐに認めてほしかった。この傷はいまだに痛むんです」
 1人暮らしで、腰の曲がった松谷のため、照子は介護申請などの助言をしている。「原爆被害は死ぬまで続く。手帳を取った、手当を取ったというのも大切だけど、その苦しみを共有して、被爆者が自立する道を一緒につくることが『相談』だと思います」。それが照子の矜持(きょうじ)だ。
 訪問を終えて立ち上がろうとした照子は、ふと松谷の椅子に目をとめた。「松谷さん、この高さで大丈夫?」。低過ぎて立ち上がるのが大変ではないか-。そんな気遣いだった。「今度探してみようよ」。照子はそう言葉をかけた。
=文中敬称略=