子や孫を前に、戦中戦後の食事情について語る脇山順子さん=長崎市内

ピースサイト関連企画

かたる きく 継承の現場から 食と戦争(1) 石ころ以外は何でも 勝利信じ空腹に耐え

2021/12/15 掲載

子や孫を前に、戦中戦後の食事情について語る脇山順子さん=長崎市内

石ころ以外は何でも 勝利信じ空腹に耐え

 戦争体験者の取材現場に子や孫世代を招き、記者と共に体験を聞いてもらうシリーズ企画「かたる きく 継承の現場から」。第2弾は長崎原爆の実相を知る料理研究家と、その家族を取り上げる。「食は命」。強い思いの根底には、どんな体験があるのか。今回は語り、聞くだけではなく、70年以上前の「食」を再現してもらい、戦中戦後の暮らしに思いをはせる。

     ◇  ◇

 今も頭から離れない母の言葉があるという。

 「石ころ以外は、何でも食べられるよ」

 11月下旬。長崎市の被爆者で料理研究家、脇山順子(85)は子や孫らを前に、記憶をたどり始めた。この日は記者が頼み、戦中戦後に食べた「雑炊」を作ってもらうことになっていた。

 1941年12月8日、日本による真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まった。当時5歳だった順子に、開戦の記憶はほぼない。物心がついた頃には戦況が悪化。配給量は細り、何もかも不足した。「とにかくおなかをすかせていた」。そんな記憶だけが鮮明に残る。

 鳴滝町(当時)に両親と5人きょうだいの計7人で暮らした。自宅の庭や空き地など至る所で野菜を栽培。足りない時には農家に野菜を分けてもらい、着物と交換した。大根やニンジンの皮はもちろんむかず、芋のつる、ネギの根っこ、カボチャの種やワタも食べた。

 この日は取材のため、300円余りの野菜を買ってきていた。「これだけあれば家族で1週間…10日分以上はあるわね」。順子はそうつぶやいた。

 45年2月、父親が結核のため死去。家庭科の教師だった母親は深刻な食料不足の中、野菜の切り方や味付けを工夫し、ささやかな食の楽しさを伝えながら3男2女に愛情を注いだ。

 時代は一方で、順子を「軍国少女」にしていった。

 「描いたのはアメリカの飛行機が墜落して、日本人が万歳をしている絵ばっかり」。戦地への慰問袋に入れる手紙を毎日のように書き、近所に赤紙が届けば、大人と一緒に万歳をした。食事前の「いただきます」は、戦地で戦う兵隊に向けた感謝の言葉。「鬼畜米英」を合言葉に、ひもじい思いにふたをした。

 順子の話を聞いていた夫信雄(85)も語り始めた。「戦争の経過を発表する『大本営発表』というのがあってね…」。食料不足への不満を紛らわす替え歌があったという。

 「大本営発表は〈♪大根えい、葉っぱ〉。軍艦マーチは〈♪チャンチャンチャララ、サツマイモ、サツマイモは甘くておいしっ〉と歌っていたよ」

 子や孫たちの笑い声が収まると、順子が静かに言った。「子どもたちも替え歌にしないと、ストレスがたまる一方だったのね」

 戦況が華々しく報じられる一方で、厳しさを増していった民衆の暮らし。子どもたちはやせ細った体で無邪気に日本の勝利を信じ、何とか生き延びていた。そんな1945年の夏、広島と長崎に原爆が投下された。

■配給通帳 持ち出し避難

 1945年8月-。長崎市の料理研究家、脇山順子(85)は当時8歳。長崎師範学校付属国民学校の3年生だった。兄2人と妹、弟の5人きょうだい。英語教師だった父親は半年前に亡くなっていた。近所の人に「あそこは敵国の言葉を教える家」と陰口をたたかれたが、母親は遺された洋書を手放すことはなかった。

集まった家族を前に被爆体験を語る脇山順子さん(右から2人目)=長崎市内

 9日は夏休み。西山町(当時)にあった県立長崎高等女学校の家庭科教師だった母親は、働きに出掛けていた。きょうだい5人で鳴滝町(当時)の自宅2階にいると、飛行機の爆音が聞こえて窓の外をのぞいた。空に落下傘のようなものが見えた瞬間、記憶は途切れた。3・3キロ離れた爆心地の上空で、原爆がさく裂したのだ。

 気が付くと、全員が1階の玄関に倒れていた。家中の窓ガラスが割れ、本棚や畳は散乱。慌てて近くの水道管が通るトンネルに逃げ込んだ。順子は母の言いつけを守り、末の弟の手をしっかりと握り、配給食料を受け取るために必要な「配給通帳」を持ち出していた。
 母は翌朝、トンネルに迎えに来た。学校にいた母は、爆心地近くの工場からやけどを負い帰ってくる生徒の手当てをした。「浦上は大変なことになった」と聞いたようだった。

 母は家に戻ると、物が散乱した畳の上に転がっていたカボチャや芋を拾い、料理を作ってくれた。やがて空が暗くなり、降ってきたのは真っ黒な雨。順子が「原子爆弾」という言葉を知ったのは、ずっと後のことだった。

 元の学校は被災して通えなくなり、伊良林国民学校に転校。その校庭は原爆犠牲者の亡きがらを火葬した場所でもあった。運動会の前には、小さな骨のかけらを拾う時間があった。

     ◆

 「しばらくして進駐軍がやって来たの」。原爆の記憶を一通り語った順子は、そう言葉を継いだ。戦後も食料不足は続き、一層困窮。誰もが栄養失調で、男子を「骨皮筋右衛門」、女子を「骨皮筋子」と言い合い、浮き出たあばら骨を見せ合った。

 靴もシャツも配給。「ララ物資」と呼ばれるアメリカの救援物資にあった洋服は古着で「染み付いた体臭がきつかったけど、うれしくてみんな着ていた」。かつての軍国少女や少年たちは、米軍のジープ型の車を追い掛けて回った。

 「初めて覚えた英語は、『ギブ・ミー・チョコレート』だったのよ」。そう言って懐かしむ順子。孫たちは少し驚いた表情で顔を見合わせ、言った。「本当にそうなんだ」

 そんな時代に食べた「雑炊」を作ることになった。

=文中敬称略=