父親の形見の懐中時計を手に引き揚げの苦労を語る増田さん。手前は当時の家族写真=大村市富の原1丁目の自宅

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被爆・戦後75年 記憶をつなぐ 引き揚げ者編・6 【市街戦】掘った穴に身を潜める

2020/08/17 掲載

父親の形見の懐中時計を手に引き揚げの苦労を語る増田さん。手前は当時の家族写真=大村市富の原1丁目の自宅

【市街戦】掘った穴に身を潜める

 1945年8月15日、終戦で旧満州(現在の中国東北部)は消滅し、無政府状態になった。ハルビンで生まれ、終戦時、新京(現在の長春)にあった白山国民学校の3年生だった増田重爾(しげる)(84)は9歳で混乱の中に放り込まれた。
 あちこちで、日本人の軍人がひれ伏して泣いていた。「絶対に戦争に勝つ」と信じて疑わなかった二つ上の長兄憲次は、敗戦にひどくショックを受けていた。
 満州電信電話に勤めていた父豊作(とよさく)の仕事もなくなり、生活は一変。新しく立派だった社宅は新京に進駐したソ連軍に接収され、古い社宅に追いやられた。その日その日を食いつないでいくため、一家はやむなくソ連兵らに着物や持ち物を売って、お金に換えた。
 父はドラム缶や板で行商の荷車をこしらえ、中国人の集落でみそ、しょうゆ、酒などを仕入れた。戦争に負けた日本人が中国人の集落に入っていくのは危険を伴うことだった。重爾も首からひもを下げた箱に、ろうそくやたばこを入れて売り歩き、日銭を稼いだ。
 冬は零下何十度にもなった。暖を確保するために、混乱で無人になった会社を回って、石炭置き場の石炭を拾い集めた。街には遺体が凍ったまま放置されていた。
 日本の敗戦を機に、共産党と国民党の対立が再燃。間もなく、新京でも激しい市街戦が繰り広げられる。一家は社宅の下に穴を掘って、2昼夜ほど身を潜めた。市街戦が終わると、共産党軍の将校から後片付けに駆り出された。長兄は、塹壕(ざんごう)の中で死にかけて体が大きく膨らんだ国民党軍の兵士を埋めさせられた。
 46年7月。ようやく日本への引き揚げが決まった。それから約40日間は難民収容所を転々。8月末、葫蘆(ころ)島から米軍の輸送船に乗り込み、9月初めに博多に上陸した。たどり着いた父の郷里、東彼上波佐見町(現在の波佐見町)では白飯がおいしく、動けなくなるほど腹いっぱいに食べたのを覚えている。
 持ち帰った現金は紙切れ同然に。嫌な思い出しかなかったのだろう。母フサは死ぬまで満州時代のことを一切、口にしなかった。
 「あんな苦しく、ひもじい思いは二度としたくない。だが、そういう時代が来ないという確証はない。大事なことは戦争をしないことだ」。75年目の終戦の日、戦没者を追悼するサイレンが鳴り響くと、重爾は自宅で静かに目を閉じ、平和を祈った。
=文中敬称略、おわり=