宮崎さんが描いた引き揚げ船「彌彦丸」。祖国を目前に船内で息絶える人も相次いだ

宮崎さんが描いた引き揚げ船「彌彦丸」。祖国を目前に船内で息絶える人も相次いだ

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被爆・戦後75年 記憶をつなぐ 引き揚げ者編・5 【爪痕】原爆の惨状に言葉失う

2020/08/15 掲載

宮崎さんが描いた引き揚げ船「彌彦丸」。祖国を目前に船内で息絶える人も相次いだ

宮崎さんが描いた引き揚げ船「彌彦丸」。祖国を目前に船内で息絶える人も相次いだ

【爪痕】原爆の惨状に言葉失う

 暦が1946年に変わったその日、旧満州(現在の中国東北部)大連で生まれ育った宮崎正人(88)の新たな人生の旅路が始まった。
 大連から家族8人で乗り込んだ貨物船「彌彦(やひこ)丸」の船倉は3段に仕切られ、約3千人の引き揚げ者で満杯。真冬の海は寒さが厳しく、煙突に体を付けて暖を取った。玄界灘に入ると、船が揺れて眠れなかった。
 食事は1日2回。大釜から取り分けた麦飯がデッキにこぼれると、スズメが餌をついばむように子どもたちが先を争って群がった。みんな、腹を空かせていた。
 祖国を目前に、栄養失調や病で息絶える人も相次いだ。亡きがらは布に包まれ、海に葬られた。船は哀愁を帯びた汽笛を大海原に響かせ、遺体の周囲を3回巡って別れを告げた。
 大連を発って約2週間後、船は佐世保・浦頭に到着した。初めて見た祖国。大連とは違い、真冬なのに緑に覆われた山に驚いた。見る物全てが珍しく、美しい自然に祖国での希望を重ね合わせた。
 だが、その景色も、貨物列車で長崎に着くと一変する。被爆から約半年。原爆の爪痕が生々しく、焼け野原には焼け焦げた路面電車が残ったままだった。「呆然と見詰めるばかり。原爆は本当に悲惨だと思った」
 長崎市神ノ島にあった母マルの実家に家族で身を寄せた。大連では軍事教練ばかり受けていたため、夜間学校で学び直した。その後、造船会社に就職。30歳を過ぎて始めた米穀店で70歳まで働いた。時代に翻弄(ほんろう)された人生。今、思う。「世の中で一番怖いのは人間。原爆をつくったのも、落としたのも人間。心を合わせ、支え合えば平和になるが、殺し合うのも人間。人間の心は理解できない」
 旧満州ハルビンで生まれた増田重爾(しげる)(84)=大村市富の原1丁目=も突然、“国”がなくなる経験をした一人だ。
 新京(現在の長春)で迎えた終戦時、9歳。その直前の45年8月13日、2歳の妹泰子が急死した。もらって食べたものが原因なのか消化不良を起こし、激しい下痢。あっという間に命を落とした。ソ連軍侵攻の報を受けて備えに出ていた父豊作(とよさく)は急いで帰宅。行政が混乱する中、“最後”の「火葬許可証」をもらい、まな娘を荼毘(だび)に付した。
 妹の死、無政府状態の混乱-。重爾は8月15日が来るたびに、つらい記憶がよみがえる。
=文中敬称略=