「反核9の日座り込み」に参加し続けている平野さん(前列中央)=6月9日、長崎市、平和公園

「反核9の日座り込み」に参加し続けている平野さん(前列中央)=6月9日、長崎市、平和公園

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被爆2世を生きる 平野伸人の半生(10完) 【継続】 「最後まで」教え胸に

2020/07/09 掲載

「反核9の日座り込み」に参加し続けている平野さん(前列中央)=6月9日、長崎市、平和公園

「反核9の日座り込み」に参加し続けている平野さん(前列中央)=6月9日、長崎市、平和公園

【継続】 「最後まで」教え胸に

 6月9日正午すぎ、強い日差しが照り付ける長崎市の平和公園であった恒例の「反核9の日座り込み」に被爆者ら約90人が集まった。「みんな年を取っているが、もう一度闘う」。集団訴訟の準備状況を報告した「被爆体験者」の男性が決意を示すと、平野伸人(73)も「思いを受け止めて応援しよう」と後押しした。
 国が定める長崎原爆の被爆地域(爆心地から南北12キロ、東西7キロ)の外で原爆に遭ったため、被爆者とは認められず「被爆体験者」と呼ばれる人たちがいる。被爆地域は原爆投下当時の同市の行政区域を基に設定され、いびつな形だ。このため、爆心地から同じ半径12キロ以内でも援護に差が生じ、被爆体験者には今も被爆者援護法が適用されていない。
 2007年、被爆体験者が市などに被爆者健康手帳の交付などを求めた集団訴訟を長崎地裁に起こす際、原告の岩永千代子(84)=布巻町=らは平野に支援を依頼した。第1陣、2陣訴訟はいずれも昨年までに最高裁で敗訴が確定したが、再提訴など動きは続く。高齢化の中、提訴からこれまでに、少なからぬ原告が帰らぬ人となった。「いつまで(私たちの)体がもつだろうか」。岩永の表情に焦りの色がにじむ。
 高校時代、白血病に倒れた同じ被爆2世の同級生の死をきっかけに原爆を意識し、1985年に2世教職員の活動に関わって以降、被爆地長崎から数々の平和運動を仕掛けてきた平野。それは、被爆者でなくても「長崎の証言の会」の創設や在外被爆者問題に傾注した鎌田定夫=2002年に72歳で死去=ら、先人の姿に学びながらの取り組みだった。
 その活力源は何なのか-。平野は「困っている人がいたら助けたいし、頼られるのはうれしい。自分を体現できる場でもある」と言う。「やると決めたら最後まで」という母良枝(101)の教えも挙げる。
 被爆地や被爆国に積み残されたさまざまな課題、そして核廃絶-。これらと向き合いながら、平野は今、被爆2世を生きている。
     ■
 6月19日夕、外で打ち合わせを終えた平野が市内の事務所に戻り、記者の取材を受けていると、今度は事務所の電話が鳴った。高校生平和大使の選考に関する埼玉の人からの問い合わせという。記者が「休む暇はなさそうですね」と投げ掛けると、笑ってうなずいた。
(文中敬称略)

 =おわり=