佐世保市中心部にあった「百枝外科医院」の前で家族と写る百枝薫さん(左から4人目の女性に抱えられた子ども)=1941年5月(百枝薫さん提供)

佐世保市中心部にあった「百枝外科医院」の前で家族と写る百枝薫さん(左から4人目の女性に抱えられた子ども)=1941年5月(百枝薫さん提供)

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被爆・戦後75年 記憶をつなぐ 佐世保空襲編・5 【記者ノート】 戦争知らない者の務め

2020/07/04 掲載

佐世保市中心部にあった「百枝外科医院」の前で家族と写る百枝薫さん(左から4人目の女性に抱えられた子ども)=1941年5月(百枝薫さん提供)

佐世保市中心部にあった「百枝外科医院」の前で家族と写る百枝薫さん(左から4人目の女性に抱えられた子ども)=1941年5月(百枝薫さん提供)

【記者ノート】 戦争知らない者の務め

 佐世保空襲の取材を担当することになり、知り合いで空襲体験者がいるかどうか母(56)に尋ねてみた。「親戚におるよ」。初耳だった。長崎市出身で被爆3世の私は、佐世保空襲とは無縁だと思っていた。
 母や祖母(85)に詳しく尋ねると、親戚一家6人が空襲で亡くなったという。その一家でたった1人、生き残りがいた。現在、神奈川県横須賀市に住む百枝薫さん(79)。祖母のいとこにあたる。
 薫さんに手紙を書くと、すぐに電話をくれた。8人家族だったが、1941年に四女が病死したため、当時7人で暮らしていた。父親は佐世保市中心部にあった「百枝外科医院」を経営する医者だったという。
 45年6月28日夜。百枝さん一家は、同市中心部の自宅隣にあった防空壕(ごう)に身を潜めていた。「おしっこに行きたい」。当時4歳だった長男の薫さんはそう言って、一緒にいた看護師と壕の外に出た。
 突然、ごう音が鳴った。米軍の爆撃機が佐世保の夜空を覆い、マッチ棒のような焼夷(しょうい)弾が市街地に落とされるのを見た。薫さんは看護師に手を引かれ、別の防空壕へ逃げ込んだ。
 夜が明けると、薫さんは汽車に乗せられ、現在の鹿町町に住む伯父のもとに引き取られた。その後、薫さん以外の家族6人は壕で窒息死したことを知った。
 高校まで佐世保で過ごした後、東京の大学に進学。卒業後、高校の英語教諭や国際芸術文化振興会(東京)の海外事業部長として海外を飛び回った。自分一人が生き延びたのは「奇跡」。だから、空襲で命を落とした家族のぶんまで生きよう、そう思った。
 戦後75年が過ぎたが、家族に祈りをささげることを一日も絶やしたことはないという。家族に伝えたいことを尋ねると「生涯孤独で、寂しくて、苦難な人生だった」と話し、こう続けた。「だけど、精いっぱい生きてきたよ」
      ◇
 6月のある日。同市鹿町町にある百枝家の墓にお参りに行った。「私たちが生きていたことを忘れないで」。そんなことを伝えられたようで、手を合わせると思わず涙があふれた。
 約1200人の犠牲者の中に身内が6人もいたことを知ってから、私の中で、佐世保空襲は明確な輪郭を持ち、遠い過去の話ではなくなった。記者としてこれからも戦争の記憶を伝え続けたい。それが戦争を知らない者の務めだと信じる。