佐世保空襲で犠牲になった人々の名前を刻む墓銘碑の前で当時の記憶を振り返る臼井さん=佐世保市、中央公園

佐世保空襲で犠牲になった人々の名前を刻む墓銘碑の前で当時の記憶を振り返る臼井さん=佐世保市、中央公園

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被爆・戦後75年 記憶をつなぐ 佐世保空襲編・1 【奪われた命】 彼らの「名前」取り戻す

2020/06/30 掲載

佐世保空襲で犠牲になった人々の名前を刻む墓銘碑の前で当時の記憶を振り返る臼井さん=佐世保市、中央公園

佐世保空襲で犠牲になった人々の名前を刻む墓銘碑の前で当時の記憶を振り返る臼井さん=佐世保市、中央公園

【奪われた命】 彼らの「名前」取り戻す

 6月22日の午前。佐世保市中心部にある中央公園。梅雨の時期には珍しく強い日差しが降り注いでいた。佐世保空襲犠牲者遺族会会長の臼井寛(86)は、小さな文字が整然と並ぶ墓銘碑を見上げた。
 「仲尾ヨツ」「仲尾實」「仲尾サツキ」。ここに来て、碑に刻まれた名前を見ると、いつも懐かしさが込み上げる。「こんなひどい目に遭うとは誰も思っていなかった」。臼井はそう言って、あの日のことを語り始めた。
 雨の夜だった。1945年6月28日。「こんな日に爆弾なんて落とさない」。当時、小佐世保国民学校5年の臼井は、高台にあった小佐世保町の自宅で、安心して幼い弟や妹と一緒に眠りについた。
 どれぐらい眠っていただろう。「敵の空襲だ。皆起きろ」。父親の大声で目を覚ました。ヒュルヒュルヒュル-焼夷(しょうい)弾の不気味な音が聞こえ、慌てて窓から外を見ると、眼下の街は火の海に包まれていた。近くの小佐世保川の暗きょへ逃げ込んだが、次第に川の水も温かくなり、燃えた木片などが流れてきた。息を殺して空襲がやむのを待った。
 家族6人は全員無事だったが、須佐町に住む母方の祖母=当時(58)=、叔父=同(34)=、叔母=同(24)=の3人が亡くなった。避難した暗きょに焼夷弾が直撃したと聞いた。空襲後、父や親戚と一緒に遺体を積んだリヤカーを引き、名切谷の火葬場に向かった。
 火葬場は既に遺体であふれていて、火葬場から歩いて10分ほど離れた広場に移動した。目を見開いたまま絶命した人、手足がちぎれた人…。広場には異臭が漂い、ピラミッドのように遺体がうずたかく積み上げられていた。
 3人の遺体に火を付け、祖父がお経を唱え始めた。初孫の臼井を誰よりもかわいがり、つい数日前に学生服を贈ってくれた祖母。豆腐店で働き、仕事の合間にリヤカーに乗せてくれた叔父。明るかった叔母…。
 「誰がこんなばかな戦争を始めたんだ」。豪胆な祖父が人目をはばからず泣いた。臼井は今も、その時の祖父の背中を思い出す。

 45年6月29日の午前0時前に起きた佐世保空襲。わずか2時間で約千トンの焼夷弾が投下された。市が公表する死者数は1242人。遺族会が資料調査や聞き取りを重ねて明らかにした数字で、正確な人数は今も分からない。
 臼井は、折に触れ、空襲体験を語ってきた。空襲後、毎日朝と夜、仏壇に手を合わせていた祖父の無念を少しでも晴らし、犠牲者の供養につながれば-と考えたからだ。
 2013年、遺族会会長に就任。16年には悲願だった犠牲者の名を刻んだ墓銘碑を完成させた。「空襲で亡くなった多くの犠牲者にも一人一人ちゃんと名前があった。なぜその証しがないのか」。そんな思いが臼井を突き動かした。
 世界の各地で戦火が絶えないのに、日本では戦争の記憶は薄れつつある。臼井はそんな状況を憂いているが、諦めてはいない。通り掛かりの市民が墓銘碑に頭を下げる姿に、かすかな希望を感じている。
 この夏、再び犠牲者名簿の確認に取りかかる。今も遺族会に新たな情報が寄せられているからだ。彼らに「名前」を取り戻し、空襲をいつまでも語り継ぐ-。臼井は、誰かに何かを語りかけるようにして、また碑を見つめた。(文中敬称略)

 佐世保空襲から75年。凄惨(せいさん)な夜を生き抜いた人々から記憶を引き継ぐことができる時間に限りが見え始めている。体験や教訓を地域で継承していくため、乗り越えるべき壁とは何かを考えたい。